コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 レッド・パージを生き抜いた男   Text by 木全公彦
レッド・パージ名簿
こういう状況だから、大映京都については「追放者たち」に詳細に書かれてあるが、そのほかの企業についての事情がよく分からない。そこで当時の「映画年鑑」をあたることにした。1952年版である。それによると、
「(マッカーサーが吉田茂に対して出したいわゆるマッカーサー書簡を)契機にして政府は国内法規にもとづく公務員の「赤色追放」を進めていたが、これに魁けて赤色追放のトップを切ったのは、同年七月廿八日の新聞、通信、放送等民間産業の大量のレッド・パージ断行であった。/映画界の赤色追放もその後に続いたが、その第一陣とみられるのは八月廿五日、日本共産党東宝撮影所細胞の団体等規正令違反による解党命令で、この結果、同細胞指導責任者十四名が公職追放になった」(「映画年鑑 1952年」)

以下、「映画年鑑 1952年」に拠るレッド・パージ人名リスト。大映京都撮影所については「追放者たち」に記載されているリストを補い、フリーに関しては複数の別資料で補った。

【東宝】
川島泰三(細胞責任者・美術)、田中徹(機関紙責任者・演出)、中尾駿太郎(東撮分会書記長・撮影)、伊藤武郎(新星映画社代表)、小松乙彦(装置)、松宮梓(技術助手)、吉崎豊治(技術助手)、江口準次(技術助手)、大倉正宝(合成)、斎藤英雄(俳優)、山形雄策(脚本家)、男沢弘(撮影助手)、河崎保(俳優)、江阪実(美術)

【大映】
岡本潤(企画係)、関谷博(企画係)、古賀聖人(監督)、野村清重(助監督)、板谷紀之(助監督)、江島繁義(照明)、森山保(東京撮影所)、佐藤春雄(監督補)、宮川孝至(助監督)、内田直吉(助監督)、若杉光夫(助監督)、村上進(助監督)、加藤泰通=加藤泰(助監督)、菅英雄(助監督)、黒田清己(撮影助手)、杉田安久利(撮影助手)、森清桂(撮影助手)、安田伊三郎(照明助手)、国分鉄男(俳優)、大樹卓(俳優)、大川修一(俳優)、郷田三朗(俳優)、生方研二(俳優)、早見栄子(俳優)、三浦継子(俳優)、宮林光蔵(俳優)、宮脇義雄(守衛)、尾木原節子(台本係)、鈴村常雄(京都撮影所)

【「追放者たち」より~大映京都のリスト】(下線は「映画年鑑 1952年版」リストの追加ぶん)
森脇春人(助監督)、菅英雄(助監督)、若杉光夫(助監督)、村上進(助監督)、杉田安久利(撮影助手)、黒田清己(撮影助手)、森清桂(撮影助手)、安田伊三郎(照明助手)、鈴村常雄(台本部)、宮林光蔵(俳優)、郷田三朗(俳優)、加藤泰(助監督)、国分鉄男(俳優)、塩津昌子(女優)、黒田継子(女優)、宮脇義雄(守衛)、尾木原節子(台本部)、金沢佳都夫(俳優)、宮川孝至(助監督)、生方研二(俳優)、大西卓夫(俳優)壺坂某(助監督)

【松竹】
[本社]加藤正治(映画部)、田部正一(歌劇団)、原英一(演劇部)[大船撮影所]高山弥七郎(進行課)、園田敬造(進行課)、春日久格(撮影課)、奥野文四郎(撮影課)、城所敏雄(撮影課)、杉山繁三(俳優)、神田隆(俳優)、五所福之助(美術課)、家城巳代治(監督)、岸東助(助監督)、鈴木潔(助監督)、森園忠(助監督)、金子精吉(助監督)、西川俊夫(助監督)、中村恭一(助監督)、伊藤精二郎(宣伝課)、中野忠夫(宣伝課)、宮島程男(装置課)、[大阪支店]溝田道雄(総務部)、尾上松生(映画部)、林盛信(映画部)、白坂初男(映画部)、半田秋男(映画部)、綿谷雪(映画部)、西川忠宏(演劇部)、[京都撮影所]小川一二三(総務部)、永井信(企画部)、関輝子(企画部)、斎藤英三(編集課)、石田寛(俳優)、浅野貞作(俳優)、佐賀精一(俳優)、小坂哲人(監督)、中村純一(助監督)、石原貞光(録音課)、本木勇(美術課)

【フリー】
岩崎昶(製作者)、五所平之助(監督)、今井正(監督)、亀井文夫(監督)、関川秀雄(監督)、楠田清(監督)、山本薩夫(監督)、清島長利=椎名利夫(脚本)、久板栄二郎(脚本)、宮島義勇(撮影)、前進座一党、山田五十鈴(俳優)、岸旗江(俳優)、沼崎勲(俳優)、原保美等

東宝争議と、それに続くレッド・パージが日本の映画界にどのような影響を与えたかについては、レッド・パージ組が独立プロ運動に参加し、独立プロ運動が盛んになっただとか、節操のない東映や後発の日活にそれらの人材が吸収されたとか、ハリウッドと異なる日本映画界独自の展開については、とりあえずはそれだけ書き記すにとどめておく。ともあれ話は野村企鋒である。

リストに戻ると、大映の欄に「野村企鋒」の名はなく、代わりに「野村清重」なる名がある。どうやらこれが野村企鋒で、「清重」は本名らしい。レッド・パージされた映画人は必ずしも共産党員やその同調者だけでないのは、加藤泰や五所平之助の名があることでも分かるが、野村の場合、以降のフィルモグラフィから推測すると、おそらく彼は共産党員であったのだろう。

前出のキネ旬「日本映画監督全集」にある野村企鋒のレッド・パージ後の活動が「フリーとして東映、東京映画で助監督をつとめ」とあるので、調べていくと、東宝の「MOVIE DATABASE」には、9本の東京映画作品のクレジットに助監督として名前がある。傍系の子会社とはいえ、東宝争議の影響で左翼アレルギーの強い東宝の系列会社で、大映をレッド・パージされた助監督が働くことが可能なのかどうか、不思議としかいいようがない。それもほとんどの作品が山崎喜暉のプロデュース作品。山崎喜暉といえば新東宝出身のプロデューサーで、そもそも新東宝は反共の人たちが作った会社ではないのか。そういえば同じく大映パージ組の板谷紀之も、パージ後は東京映画で助監督を経験したのち監督に昇進している。このあたりの事情はまるで謎。

謎といえば、野村が監督デビューすることになった『真昼の惨劇』の製作母体である歌舞伎座プロも謎が多い。