コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 レッド・パージを生き抜いた男   Text by 木全公彦
歌舞伎座プロ
歌舞伎座プロ(正式名称は「歌舞伎座プロダクション」)は、1956年4月に、大谷竹次郎松竹会長の肝入りで設立された。当初の目的は松竹が抱える歌舞伎の人材を映画にも役立て、演劇と映画の人材交流を図るというものだったが、実際は二本立て興行が主流になってきた日本の映画界において、量産体制を支えるために必要になったためである。一説には、大映の永田雅一とともに二本立て興行に反対する城戸四郎社長と、他社と同じく東映の成功が先鞭をつけた二本立て興行を主張する大谷竹次郎との内紛と見る向きもあるが、これについてはそれを裏付ける資料がないので保留にしておく。

大谷竹次郎

『怒りの孤島』ポスター
ただし次のような大谷竹次郎の発言はある。「残念ながら松竹も対抗上から積極的な二本立に打って出るべきである。といっても、城戸社長は従来の主張からして、例え歌舞伎座プロが二本立作品を作るにしても、自分の口からは発表できない。そこで、私が歌舞伎座プロで併映作品を作って、これを松竹が営業的見地から買い取る形にする」(「映画年鑑 1959年版)。

歌舞伎座プロが松竹の二本立て興行による増産体制の補助として設立されたプロダクションであることは間違いない。手許にある松竹の社史(「八十年史」「百年史」)の記述もそれを裏付ける。そして松竹との折衝の結果、歌舞伎座プロが製作する映画は年間6本から12本ないし13本に倍加することになった。

相談役には、大映に反旗を翻して第七系統の映画会社・日映を設立しようとして挫折した曽我正史を迎え、製作会社として『怒りの孤島』(1958年、久松静児監督)、『悪徳』(1958年、佐分利信監督)のわずか2本1年で解散した日映の社員全員と企画、さらに機材も歌舞伎座プロがそのまま買い受けることになった。こうしてみると、まさか大映に反旗を翻して日映設立を目論んだ曽我正史のクーデターの背後に松竹・大谷竹次郎がいたとか疑ってみたくなるけれども、まさか?

当初発表された歌舞伎座プロの契約監督は、五所平之助を筆頭に、山本薩夫、今井正、木村恵吾、志村敏夫、冬島泰三、内川清一郎の7人(うち冬島、内川は結果的に歌舞伎座プロで映画を撮っていない)。志村敏夫の『無鉄砲一代』(1958年)は日映の第3弾として企画されていたものをそのまま譲り受けたものである。

それにしても五所平之助といい、山本薩夫といい、今井正といい、レッド・パージされた監督が3名も並ぶのはおかしくはないか。そう思うとレッド・パージされた人材を松竹が直接雇うことはまだ憚られたので、傍系の歌舞伎座プロを作ってそこで緩衝材のようにして彼らを雇い入れたとか考えられまいか。まさか?

五所平之助
設立された歌舞伎座プロの第1回作品は『或る夜ふたたび』(1956年、五所平之助監督)。事前に契約監督として発表されたうち、山本薩夫は『赤い陣羽織』(1958年)、木村恵吾は『吹雪と共に消えゆきぬ』(1959年)と、それぞれ1本しか監督していないのに、五所平之助が『或る夜ふたたび』を筆頭に『黄色いからす』(1957年)、『挽歌』(1957年)、『螢火』(1958年)、『蟻の街のマリア』(1958年)、『からたち日記』(1959年)と6本も監督作があり、五所がいくら松竹プロパーの監督だったとはいえ、歌舞伎座プロをほとんどひとりで引っ張るような主力監督になっているのは、不自然といわねばならない。レッド・パージされたものの五所は共産党員でも左翼でもないので、松竹で監督させたいのだが、公然と迎え入れることができなかったために、歌舞伎座プロを利用して段階的に松竹本体の作品を撮らせようとした? まさか?

とにかく大映をレッド・パージされた野村企鋒が監督デビューを果たす歌舞伎座プロとは、そういう会社であることは確認しておきたい。とはいっても、ホームドラマとメロドラマを得意とする松竹で、『真昼の惨劇』のような実話を題材にした尊属殺人の物語が普通なら企画として通るはずもなく、あまりの即製ぶりも松竹らしからぬものである。そのあたりの事情も歌舞伎座プロならではの謎だ。

ともあれ野村企鋒は続いて歌舞伎座プロから松竹京都に横滑りして、『剣風次男侍』(1959年)という武家の次男三男の問題を取り上げた、松本錦四郎、花ノ本寿主演の時代劇を監督する。脚本はなんと灘千造! 『たそがれ酒場』(1955年、内田吐夢監督)で脚本家デビューした新聞記者上がりのこの変人脚本家のキャリアと人柄について語るのは機会を改めることにしよう。

そして野村企鋒は、『真昼の惨劇』と『剣風次男侍』の2作品を残して、劇映画界から姿を消してしまう。