コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 レッド・パージを生き抜いた男   Text by 木全公彦
野村企鋒プロフィール
キネマ旬報の「日本映画監督全集」(1976年刊)による野村企鋒のプロフィールを引き写す。
「1919年7月16日、富山県城村二五三に生まれる。幼児から兄に連れられ映画館に通い、『街の灯』や『西部戦線異状なし』に熱中する。専修大学専門部経済科を中退して40年2月、新興キネマ監督部に助監督として入社するが、翌年12月太平洋戦争の開始と同時に召集され、北支、仏領インドシナ、タイ、マレー、ビルマ国境に転線。46年復員して新興が併合された大映の京都撮影所に復職したが、50年マッカーサー司令部によるレッド・パージにひっかかり、その後フリーとして東映、東京映画で助監督をつとめ、この間、須山真佐樹、伊奈精一、青山三郎、田中重雄、田口哲、春原政久、小石栄一らに師事。その一方、教育映画『白い機関車』、『がんばれよっちゃん』、『光と風と子供』やPR映画を演出。58年8月歌舞伎座映画第一作『真昼の惨劇』で監督デビュー。その後松竹で『剣風次男侍』を撮るが、長篇劇映画はこの二本だけで、以後教育映画やPR映画、CFを演出する。47年7月3日結婚、二女あり」(執筆:押川義行)

私が次に野村企鋒の名前を聞くのは、鈴木英夫と木村威夫の対談を企画し、鈴木監督行きつけの渋谷の喫茶店で、お話をうかがっているときのことだった。ふいに鈴木・木村両氏の口から、鈴木監督の助監督だった人として挙がった名前の中に、この野村企鋒の名があったのである。そうすると野村は大映京都所属からすぐに東京撮影所に移籍になり、そこでレッド・パージに遭ったらしい。

【参照】映画の國「鈴木英夫〈その6〉 対談:鈴木英夫×木村威夫」

新興キネマに入社してすぐに召集され、激戦地といわれた北支から東南アジアを次々と転線し、さらに大映に復員したのもつかのま(おそらくこの時期に鈴木英夫の助監督を務めたのであろう)、今度はレッド・パージに遭う。全くツキに見放された人生というほかない。そして歌舞伎座プロという松竹の傍系会社で、世を騒がせた事件をその記憶の新しいうちにちゃっかり映画化するという、エクスプロテーション映画、つまりいわゆるキワモノ映画ともいえる『真昼の惨劇』で劇映画デビューを飾るという皮肉。

俄然興味が湧いた。最初はまずレッド・パージから調べることにした。