コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 レッド・パージを生き抜いた男   Text by 木全公彦
1985年から1990年代半ばにかけてのことだと思うが、三軒茶屋にある西友の5階にスタジオamsという映画上映スペースがあった。もともとは西友のお中元やお歳暮の催事場として使われていたスペースだったものを、小ホールに改造して当初は芝居やイベントをやっていたようだが、1985年頃からはシネクラブ的な映画上映スペースとして使われるようになったのだと記憶する。

三軒茶屋スタジオams
最初はハワード・ホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』の本邦初字幕付上映や増村保造初期作品、大和屋竺の特集など、いかにもシネクラブ的な番組編成だったが、やがて都内の名画座さえも上映しないレアな旧作日本映画上映に特化し、日毎映画獣と呼ばれる濃厚な奇人・変人たちのたまり場となった。

衣替えしたスタジオamsは、映写技師ともぎりも兼ねた支配人の吉濱葉子さんの方針で、それこそ小津や溝口など巨匠の名作以外の、いわゆるプログラム・ピクチュアの特集上映を日替わり2本ないし3本立てで上映した。「司葉子特集」のあと、数人の常連客が受付に押し掛け、「鈴木英夫監督の特集をやってほしい」と言って鈴木英夫の特集が組まれ、その特集上映に監督ご本人が連日お忍びで来場されていたのが、現在の鈴木英夫評価のすべての始まりである。ほかにも香川京子さんや岡田茉莉子さんらが自分の特集上映に連日足を運ばれていらして、餃子の皮のような薄っぺらな椅子が据え付けられた30席ほどの小さな空間は、狷介な社会不適応のはぐれ者たちをつかのまの陶酔の時間へといざなったのである。

それでも鈴木英夫のような場合はまだよかった。それ以外の、名画座さえもほとんど上映しない作品群は、長い間、映画会社の倉庫に放置され、著しく褪色しているものも珍しくなく(特に松竹!)、中にはビネガー・シンドロームを起こしているものさえあって、受付のところまで古いフィルム特有の酸っぱい匂いが漂ってきたりすることが何度もあった。もちろんそのような映画の大半は箸にも棒にもかからないしょうもない作品が多くて、窮屈な椅子に縛り付けられる苦痛と退屈さにひたすら堪え忍び、どうしてこんなところでこんなどうしようもない映画なんか見ているのかと自問せざるを得ないはめになったことは数え切れない。いや、そちらの経験のほうが圧倒的に多かった。

プログラムを組む吉濱さんは、要するにできるだけ映画会社が持っている旧作日本映画(1950年代前後の東宝・松竹を中心とした作品で、デジタル化される前の新東宝作品や裕次郎登場前の日活作品も含まれていた)を、ジャンクされる前に可能な限り上映しようとしていたように思う。この劇場を閉めるときは彼女が愛する森雅之の特集で閉めようと密かに計画していたようだが、その思惑は外れ、最後は松林和尚が自らの新東宝時代の特集で看取ることになった(記憶に間違いなければ、確か中野武蔵野ホールのラストひとつ前上映も松林宗恵特集である。松林宗恵は和尚でなく死神か!)。しかし連日上映される膨大なプログラム・ピクチュアの中には、常識や教養には欠けていても映画については博覧強記の映画獣でさえ名前も知らない作品も混ざっていた。

今回紹介する野村企鋒(きほう)という全く未知の監督の『真昼の惨劇』という映画もそうした作品のひとつだった。