コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 レッド・パージを生き抜いた男   Text by 木全公彦
レッド・パージ
日本におけるレッド・パージの一般的な定義は次のとおり。 「直訳すれば、赤追放であり、共産党とその同調者を公的組織や職場から排除することをさす。戦後、言論・思想の自由が保障されたが、アメリカが世界政策のため日本を“反共の防壁”とする方針をすすめるにつれ、GHQ内でレッド・パージの計画がすすめられ、一九四九年(昭和二四年)ドッジ・ラインに基づく行政整理・企業整備の中で共産党員とその同調者が重点的にその整理の対象とされた。さらに、五〇年に入ると、GHQの直接指令がおこなわれるようになった。同年五月三日、共産党非合法化を示唆する声明を発したマッカーサーは、朝鮮戦争直前の六月六日、共産党中央委員二十四名全員の、次いで『アカハタ』編集幹部十七名の公職追放を指令、さらに七月二十八日からGHQの指示により新聞・放送関係の職場からレッド・パージが始められ、政府機関に拡大され、また民間産業もこれに同調し、大学を除き大きな抵抗もなく、民間企業で一万九百二十二名、公務員・公共企業体職員では、四九年の人員整理とあわせて一万七百九十三名が職を追われた」(竹内理三・田中彰・宇野俊一・佐々木隆爾篇「日本近現代史小辞典」角川書店、1978年)

最近出版された「戦後史の汚点 レッド・パージ GHQの指示という『神話』を検証する」(明神勲、大月書店、2013年)では、「レッド・パージ=GHQの指示」説を退け、「レッド・パージ=GHQ示唆・督励」説を提示し、その例証を行っている。GHQ/SCAPによる例の「チャンバラ禁止令」や「接吻映画奨励」なども、形は「指示」ではなく「示唆・督励」による「教育的指導」ではあったというし、さもありなんである。

ところで同書によると、日本におけるレッド・パージは5段階に分けられ、それぞれを、①1949年7月~12月の「行政整理」「企業整理」 ②1949年9月~1950年3月の「初等中等学校教員のレッド・パージ」 ③1949年9月~1951年3月の「大学教員のレッド・パージ」 ④1950年6月~12月の「新聞・放送から全企業に拡大したレッド・パージ」 ⑤1949年9月~1951年9月の「公職追放のよるレッド・パージ」としている。映画界におけるレッド・パージはこのうちの直接的かつ中核を成すレッド・パージである④にあたる。

日本において(日本の)レッド・パージが本格的に研究されるようになったのは1980年代に入ってからだという。個別の産業や企業についての証言集ではなく、レッド・パージそのものの包括的研究の本の出版は、調べた限り「レッドパージ」(梶谷善久篇、図書出版社、1980年)、「レッドパージ」(塩田庄兵衛、新日本新書、1984年)あたりから始まり、前出の「「戦後史の汚点 レッド・パージ」が出版される前までは、代表的な著作として「レッド・パージとは何か 日本占領の影」(三宅明正、大月書店、1994年)、「レッド・パージの史的究明」(平田哲男、新日本出版社、2002年)があるにすぎない。

書籍「追放者たち」
加えて日本映画界におけるレッド・パージは、その前哨戦である東宝争議があまりに大規模な争議であったため、それについて書かれたものは多いが、レッド・パージそのものについて書かれた文献は、一次資料にせよ研究論文にせよほとんどない。大映京都におけるレッド・パージを取り上げた「追放者たち 映画のレッドパージ」(新藤兼人、岩波書店、1983年)はその例外的な稀有な資料。ほかには「講座 日本映画⑤ 戦後映画の展開」(岩波書店、1987年)と「レッド・パージ――ある小さな体験――」(「昭和の戦後史2」所収、汐文社、1976年)があるぐらい。前者は新藤兼人が大映京都をパージされた杉田安久利に取材したもので、「追放者たち」を補う資料。後者は松竹出身の草間信夫による回想録。このほか前出の「レッド・パージの史的究明」が映画界のレッド・パージについて比較的頁を割いているのみで、これも「追放者たち」を参照にしているので、日本映画界におけるレッド・パージの一次資料は、わずかに3つしかないということになる(各企業の社史にもレッド・パージについての記載は一切ない)。

「追放者たち」によると、日本映画界のレッド・パージは「松竹66人、大映30人、東宝13人、日映25人、理研3人」としている。つまり合計137人ということになる。また別の資料「日経連事務局篇 レッド・パージの経過並に関係資料」(1957年)では松竹は67名となっていて、資料によって多少の誤差が認められる。

また、これとは別に「各社の専属でないため直接追放の対象にはならなかったが共産党員とみられている新劇人滝沢修、宇野重吉、加藤嘉、信欣三、赤木蘭子、薄田研二、岡田英次諸氏については、今後の映画出演を各映画会社が敬遠する意向をみせている」(「朝日新聞」1950年9月24日付)という記事もあり、フリーや新劇人になると把握しきれない。

会社別では、東宝の人数が少ないのは第三次東宝争議に結果による自主退社と第四次争議による人員整理によってすでに退社した人が多かったためで、新東宝は反組合の人たちによって設立された会社であったからである。東映の前身である東横映画はマキノ光男が「右翼でもなければ左翼でもない。いってみれば(ウチは)大日本映画党だ」と言ってGHQをケムに巻いたため皆無であった。