海外版DVDを見てみた 第33回 マルグリット・デュラス、彼女はなぜ映画を撮ったのか(3) Text by 吉田広明
書籍『エクリールー書くことの彼方へ』

書籍『夏の雨』 
小説と映画
デュラスの映画作品にはさらに『大西洋の男』(81)、『ローマの対話』(82)、『子供たち』(84)がある。それぞれテクスト『大西洋の男』(82)、テクスト『ローマ』(『エクリール―書くことの彼方へ』93所収)、『子供たち』には原作童話『あぁ!エルネスト』(71)と、映画を発想源とする小説『夏の雨』(90)がある。『大西洋の男』は上映時間のほとんどが暗闇という特異な映画で、デュラスの「わたし」とヤン・アンドレアの「あなた」の対話がそこに被さる。デュラスはわざわざ新聞に広告を載せ、映画に求めるものが単に娯楽でしかない観客にあえてこの映画に来ないよう釘を刺した。筆者は未見だが、確かに言葉はそれが表象しているものの無限のイメージを掻き立てるにせよ、その自由を保障するために画面を黒に染めてしまうならば、それは映画の本性の否定ですらあるだろう。これで文学が映画に対して再び勝利を得られるとは思えない。

とは言え、このような映画を作っていること自体は、デュラスがこの時点でも言葉と映像の葛藤の中で創作をしていたことの証ではあるだろう。しかし言葉と映像の葛藤は、デュラスの中で確かに弱まっているように見える。童話から映画、映画から小説と変遷した『子供たち』、学校は自分の知らないことを教えるから行かないと、登校を拒絶する男の子を描いた作品(それはデュラスのデュオニス・マスコロとの一子ジャンをモデルにしているというが)にしても、男の子を演じるのが四十過ぎの中年男である、という事を除けば、これまでのデュラス作品とはまるで違う、言ってみれば普通の映画になっている(のでここでは取り上げない)。

デュラスが最終的に言葉に回帰したのは確かだろう。しかし、では映画はデュラスにとって回り道でしかなかったのかと言えばそうではない。デュラスにとって映画は先ずは小説を壊すための梃であり、現前性を消去した、どこでもない、いつでもない時空間を成立させることができたのは映画においてであった。そのような時空間は、アイデンティティを欠いたデュラス的な「記憶」として、自身の過去にまで向けられるに至り、晩年の豊饒な小説世界を生みだした。逆に映画の側から見てデュラスが映画に対してもたらしたものも大きい。映画において映像と音声が同期している必要はない。しかし自明と言えば自明なそのことを、映画における創意にまで昇華させた例は、ゴダールとデュラスをおいて他にない。画面におけるオフのスペースを創意豊かに使用した例には事欠かなくとも、こと音声をあえて映像とズラすことで異様な時空を生み出した例は少ないのだ(これは現在においても未だにそうである)。デュラスにおいて音声とは即ち声、ナレーションであり、言葉に関わる。デュラスが文学者であったことが当然ながらそこには大きく関与している。二つの媒体を掛け合わせることでデュラスは、小説だけ、映画だけではできなかったことを為し得た。文学と映画がこのように密接に働き合い、相互に豊かな成果をもたらした例は類を見ない。