海外版DVDを見てみた 第33回 マルグリット・デュラス、彼女はなぜ映画を撮ったのか(3) Text by 吉田広明
マルグリット・デュラス

『インディア・ソング』アンヌ=マリーと副領事

『トラック』無人の平原を走るトラック

『トラック』撮影時のデュラス

『トラック』暗室で語るデュラスとドパルデュー
マルグリット・デュラスについて考える稿の第三回。今回は彼女にとって重要なテーマの一つである強制収容所について扱った『オーレリア・シュタイナー』二部作を中心に書く。表象媒体である映画は、表象不可能な出来事にいかに応対するのか。

『トラック』
『インディア・ソング』三部作はデュラス映画の第一のピークを形作った。そこでは映像と音声のずれが、出来事を誰のものでもない、非人称化された「記憶」へと変貌させていた。そこでも語り(噂話をする男女)はズレを生み出すための重要な役割を演じていたが、『トラック』(77)以後も語りは用いられるものの、そのありようは大きく変貌する(『トラック』以前にデュラスは『バクステル、ヴェラ・バクステル』76、『木立の中の日々』76を撮っているが、共に戯曲の映画化で、共に2014年出たDVDボックスに所収されていて見ることが出来る。ただしわれわれの関心を外れるためここでは取り上げない)。『トラック』以後、語りは『インディア・ソング』三部作におけるように第三者による噂話という虚構的枠組みが外され、しかもさらに重要なことに、デュラス自身が語りを担当する。

『トラック』は、パリの郊外でヒッチハイクして乗ってきた老女がトラックの運転手に向かって語るという設定自体について語るデュラスとドパルデューの声が、郊外を走るトラックとトラックの車窓からの映像に被さるという作り。灰色に空の曇る午後、あるいは早朝なのか夕べなのか青みがかった空の下を行くトラック。トラックが走る郊外にも人の姿はまったく映らず、この世界にはそもそも人がいないかのようだ。乗っているとされる老女と運転手も画面に映ることはなく、運転席がカメラで捉えられることもあるがそこにすら人はいない。トラックは海沿いの道を走っているとされ、老女は「ごらんなさい、世界の終末よ」と言って海を指す(と語り手デュラスは言う)。無論画面に海など映っていはしないのだが、世界の終末とされる海の不在が、かえって一層不穏なものとして画面を蝕み続ける。不在そのものを際立たせるかのようなそうした画面に被さるオフの声で、トラックに乗っているとされる老女と運転手の語りは直接会話体をなしているわけではなく、二人の様子や彼女の話す内容をデュラスの声が伝え、時折ドパルデューがそれにコメントを加えるのみだ。ノーフル=ル・シャトーの家の一室で、デュラスとドパルデューが原稿を持ちながらそれを読んだり、その原稿について語ったりするところも映る。夜、暗がりの中に二人の姿が浮かび上がり、そこはまるで暗室のようだ。

ヒッチハイクする老女は植民地出身で、共産主義に失望している女、という設定で、そこにはデュラス自身が投影されているだろう。彼女は「社会階級から脱落した女」(劇中デュラスによる老女の定義)であり、彼女と同じように社会階級から脱落したプロレタリアートたちが非人間的な労働によって得た給与を社会が回収するための装置とデュラスが見るところの郊外の巨大ショッピングモールが何度となく映し出され、この作品が『破壊しに、』などにつながる政治的なものでもあることを明らかにしている。そもそもこのトラック自体、そうしたショッピングモールに商品を届けるものであり、そのトラックの中に閉じ込められ、寂しい郊外を行ったり来たりで明け暮れる日々も、人間的交流から疎外された生活であろうと思われる。老女とトラック運転手の出会いは、そんな生活の中でかろうじて得られた人間的交流の機会なのかもしれない(それでも彼らの出会いが実体として描かれることはないのだが)。疎外された存在は、今後のデュラス映画に大きく取り上げられてゆくことになる。

この作品の終わりでデュラスはこう語る。「誰かが言う―彼女はいつもあんな調子で、毎晩車やトラックを停め、それに乗りこんでははじめての身の上話をする…」。繰り返される語り、しかも毎回「はじめての身の上話」といううさんくさい語り。このような物語はこれまでのデュラス的な物語と同じものである。しかし今回の語りは既述のようにデュラス自身によってなされている。デュラスは当初老女を誰か(例えばシモーヌ・シニョレ)に演じてもらうことを考えていたが、スケジュールが合わずどうしていいか分らずにいたところ、自分で語ってみようと思い付き、一挙に解放されたと述べているという(ユリイカ1978年7月号、田中倫郎「トラックについて」)。誰かが演じたとしても、『インディア・ソング』と同じように音声と映像のズレは生じていたものと思われるが、もはや演じることは放棄され、かつ今度は老女の語りが台詞として構成されてすらいない。『トラック』ではまだドパルデューがデュラスの語りに多少はコメントを入れるが、さらにその上、以後数作にわたってデュラスの一人語りになる。もはやデュラス映画は演じられるものではなく、語られるものになってゆくのだ。

にしても何故デュラスは自分で語るようになったのか。『トラック』に関して言えば、上記のように植民地出身で共産党に愛想をつかした人間である老婦人に自身を仮託していることがあるだろう。プロレタリアートではないにしても、「書く」という営為において自身が社会から外れた者であるという自覚がデュラスにはある。「書く」ことは人外の営為なのだ。さらに重要なことに、老婦人は「身の上話」を何度も繰り返すうさんくさい語り手であるわけだが、デュラス自身、自分の過去を何度も語り直してきた語り手(植民地時代の家族の物語を、また、その地で出会ったファム・ファタルであるアンヌ=マリー・ストレッテルについて)であり、また、これからも語り直してゆくことになる(『愛人ラマン』、『北の愛人』)。しかもその都度回想にはズレが生じてゆくのだから、デュラス自身がこの老婦人と同じなのだ。デュラスは映画において、自分自身として語り始める。デュラス自身が登場人物となる。エッセイ的な、デュラス自身の思考が語られる『セザレ』、『陰画の手』はいうまでもなく、自身をユダヤ人と規定するデュラスがユダヤ人の少女の一人称で語る『オーレリア・シュタイナー』二部作においても、語り手とデュラスの距離は(当然ゼロではないが)限りなく近づいている。

またこの作品は、デュラスが語り手を務める映画の中で例外的なことに、デュラス自身が画面に現れている。既述の通り、デュラスはドパルデューと共にノーフル=ル・シャトーの自宅の二階の一室にいるのだが、そこは必ず夜であり、二人は闇の中、数個の電燈に照らされるなかに浮かび上がっている。先にその空間は「暗室」のようだ、と書いたが、それはデュラス自身が言っていること(のよう)だ。田中倫郎「トラックについて」によれば、デュラスは 「読書をする空間は、たとえそれが白昼野天の真中であろうと、読んでいる者のまわりは暗室になる」と述べているという。これは本を読む時のことについての言ではあろうが、言葉が持つ権能という点では映画におけるナレーションも変わらないだろう。言葉が現れる空間は闇となり、その闇の中に言葉を受け取る者それぞれのイメージが浮かび上がる。しかし、とわれわれは不図疑問に駆られる。この言葉が持つ現前性、それを今一つの現前性=イメージと相殺させ、消去するためにデュラスは映画を撮ったのではなかったか。ここでデュラスは闇=暗室を生じさせることで、映像よりは言葉の側に立ち、『インディア・ソング』三部作で自身が達成した業績を否定することになってはいないか。確かにそうなのかもしれない。ナレーションが大きな役割を演じる以後の短編、とりわけ『オーレリア・シュタイナー』二部作におけるユダヤ的「言葉」の重要性(後述)や、デュラスが映画を撮ることを止め、再び小説に回帰してゆくことを思えば、最終的にデュラスは言葉の人であったことは否定しがたい。言葉を受け取る者それぞれが自由にイメージを思い浮かべる権利があり、しかしそれを一つに限定してしまうからこそ映画は小説の大虐殺だと考えていたデュラスは、そのほとんど真っ暗な画面にナレーションが響くという『大西洋の男』という作品も撮っている(筆者未見)。暗室の全面化であるこの作品は、映像と言葉のうち言葉の比重を限界まで重くしたものと言えるだろうが、しかしデュラス映画の可能性の中心は映像と言葉のせめぎ合いにあり、そのバランスがここまで傾いてしまうことに、われわれとしては疑問を持たざるを得ない。『インディア・ソング』三部作におけるように映像と言葉が鋭い拮抗状態に置かれることはなく、『トラック』以後、確かに言葉の比重が大きくなってゆくにしても、それはまだ映像との葛藤(あるいは言葉と映像の構成と言った方がもはやいいのかもしれないが)の中にあり、だからこそわれわれはデュラス映画から刺激を受け続ける。

実際、『トラック』は、言葉と映像の構成にこそその真価がある。ここで言葉は読まれる文字としてではなく、声=音響として響く。デュラス自身の声は淡々として、その声によって短いセンテンス、時に単語のみが、時に何度も反復されつつ、沈黙の上に置かれてゆく(例えば。「M・Dのオフの声―沈黙。彼女はまた、少女時代に住んでいた町の話もする。/フランスから遠く離れた町。/熱帯地方にある町。/彼女は言う―河があるのよ、と。/その当時のことを目も眩むほどの鮮明さで覚えていると彼女は言う。/彼の方は、どこの町なのか訊こうとしない。/そこで彼女はまた別の町の話をする。/いくつもの別の町の話をする。/沈黙/彼女はこう言うのである―私の頭のなかは、眩暈や叫び声で一杯だ。/風で一杯だ。/だからときどき、わたしはたとえばものを書く。何頁にもわたってね。/(間)/さもなければ眠ってしまう。」)。沈黙、余白に深く浸された言葉が、無人の風景の映像そのものの中に散種されてゆくようである。散種、といえばこの映画の空間についても述べておかねばならない。このトラックという空間は、それ自体は閉ざされているのだが、大きく開いた窓によって外が入り込む空間でもあり、閉鎖と解放が同居する空間、『ナタリー・グランジェ』における家の一変種と見ることができる。しかしこの空間自体は移動しており、そこにナレーションが重ねられる時、その言葉そのものが移動し、外の空間に撒かれているように見えるのである。映画は、映像と言葉を構成することで成り立つ。デュラスは確かに『インディア・ソング』三部作の成果から離れつつあるが、しかしその構成という点で、その成果を継続している。