海外版DVDを見てみた 第33回 マルグリット・デュラス、彼女はなぜ映画を撮ったのか(3) Text by 吉田広明
『オーレリア・シュタイナー』メルボルン、セーヌ

『オーレリア・シュタイナー』メルボルン、橋上の人影
『オーレリア・シュタイナー』メルボルン篇
テクスト『オーレリア・シュタイナー』は1979年に書かれたメルボルン篇、ヴァンクーヴァー篇、パリ篇の三部作(ただしテクスト版には地名は記されておらず、どれも『オーレリア・シュタイナー』との表記があるのみ、ここでは便宜的に地名で区別する)で、そのどれもが十八歳のオーレリアという少女が誰かに宛てた手紙の形式を取っている。メルボルン篇では、オーレリアは誰とも知れない宛先人「あなた」への愛を語るが、その人はロンドンでペストによって、戦争によって、あるいはドイツ東部の収容所で、シベリアで、既に死んでおり、埋められている。収容所という言葉によって、これがユダヤを巡る物語であることがほのめかされるが、まだ明確ではない。一方映画版メルボルン篇(テクストと同じ79年)では、ユダヤ性が一層明確に現れる。テクストを読むデュラスの声に、ボート上から撮られたパリ、セーヌ河や、そこに架かる橋の橋梁、橋上の人影などの映像が重なるのだが、なぜ河なのか。デュラスによれば、「六一年のアルジェリア人の死者たちと関係があったと思う。アルジェリア人の死者たちを押し流したセーヌ河のことを考えていた。死の流れが都市をよこぎった様を考えた。パリは多くのユダヤ人を差し出した」(『デュラス 映画を語る』)という。六一年、アルジェリア戦争の最中、アルジェリア民族解放戦線支持者のデモを警察が襲撃、多数の死体がセーヌに浮かんだという。その死者がユダヤ人であったのかどうか分からないが、デュラスの中ではセーヌに浮かぶ死体=権力が殺した人々=第二次大戦中、占領下のフランスによってナチス・ドイツに差し出されたユダヤ人、との連想が働いた。一見穏やかなセーヌの映像は、しかし死を潜在させているのである。

テクスト版には一匹の猫が現れる。「痩せこけて気の違った猫の周囲に、夜が今、訪れる。(…)風と飢えの中で彼は叫ぶ。黒い洞窟の中で…」。この猫は、言語を絶する悲惨な運命に晒された存在として、取りあえずは強制収容所のユダヤ人を象徴するものではあるだろうが、しかしまた、愛を求めて叫ぶ存在としてロル・V・シュタイン、『インディ ア・ソング』の女乞食、副領事、『陰画の手』の古代の男などのデュラス的人物を連想させもする(『緑の眼』所載「オーレリア・オーレリア2」でデュラスは「オーレリアはロル・V・シュタインの殺戮された躰から出てきた」と書いてもいる)。その連想が正しいとすれば、ここでデュラスは、愛を求める叫びと、世界の非道への告発の叫びを等値していることになる。『ヒロシマ、モナムール』におけるヒロシマとヒロインのヌヴェールでの愛が等値されたのと同じ事態がここでも生じている。

こうした政治的文脈を経由した上で見ても、映画版メルボルンにおけるセーヌの映像は穏やかで美しい。そして橋の上の人物たち。彼ら彼女らは逆光で捉えられ、その輪郭しかわれわれには捉えられない。その中で一人の女性のシルエットが比較的長く捉えられたショットがあり、われわれはこの女性こそオーレリアなのでは、という想像を禁じることが出来ない。しかし、この女性の任意性が、今この瞬間、どこかの都市で、どこかの街で、どこかの村で、橋の上に立つ女性がみなオーレリアなのだという思いを呼ぶ。この女性たちもまた、デュラス的な、誰のものでもなくなった非人称的な「記憶」、アイデンティティを失った人物の散種である。