海外版DVDを見てみた 第33回 マルグリット・デュラス、彼女はなぜ映画を撮ったのか(3) Text by 吉田広明

ゴダール『映画史』『陽のあたる場所』のテイラーと救済のイメージ


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ゴダール『映画史』
ゴダールとの平行関係
強制収容所に対するこうしたデュラスの態度は、ゴダールなどとも平行関係にある(以下ゴダールのイメージ観については堀潤之「映画的イマージュと世紀の痕跡」、『ゴダール・映像・歴史』産業図書、所収、を参照)。ゴダールはデュラスと違って、収容所の記録はある、ないし、なければならない、と断じる。強制収容所のイメージがほとんど残されていないことは、映画にとってその権能への信頼を揺るがしかねない恥ずべきことだ。ゴダールは『映画史』で、実際にアウシュビッツを記録し得ていたジョージ・スティーブンスを称え、それが出来たからこそスティーブンスは『陽のあたる場所』でエリザベス・テイラーとモンゴメリー・クリフトが戯れる幸福な場面を撮れたのだ、と述べている。われわれとしてはスティーブンスへの過褒としか思えないこうした言辞も、彼が収容所を記録していたからこそである。映画には出来事を映像として記録することができる。できなければならない。ゴダールは直弟子トリュフォー以上にバザン主義者なのだ。しかし一方で、ゴダールはその初期からモンタージュを映画の最大の特性と考え、またそれを最大の武器として来た作家でもある。一見遠い関係にある二つの映像を繋ぐことで、映画によるのでなければ見ることができなかった何かを一瞬垣間見せる。ものや出来事をあるがままに認識するのではなく、そのありえた、ありうる姿を開示すること。過去は、過ぎ去った、取り返しがつかないもの、悔悟するしかないものではない。モンタージュによって、あるいはそのようなものとしてありえたかもしれないものとして新たな相のもとに現れる。それは、現実の真の記録である映像からすれば、人の操作によって現れるいかがわしいもの、であるかもしれない。しかしそのいかがわしさもまた、映画の力である。

ゴダールは『映画史』で、イメージの持つ、過去を真なるものとして記録するという権能と、モンタージュによって過去をありえたかもしれないものとして創造=救済するという権能の間でせめぎあっている。デュラスもまた同じである。デュラスは決定的な出来事を、語り、語り直すことで誰のものでもない「記憶」に変えてゆく。それが決定的な出来事を生き延び、他者に分有せしめるための語りの力である。一方デュラスにも、過去の真なる痕跡としての映像への信は存在する。『陰画の手』における手の映像。それはかつて存在していた誰かの痕跡であり、しかしそれを遺した者の不在が、一層その現存を強く想像させるような「真」なるイメージである。しかしデュラスは『陰画の手』という作品において、その陰画の手そのものを映しもしないし、それについて語る言葉を早朝のパリの路上のイメージに重ねる(モンタージュする)のだ。古代において壁面に残された陰画の手(の不在のイメージ)は、現在のパリの早朝の路上とそこにいる移民労働者の映像に衝突させられ、孤立した者、存在していることすら知られない者たちが他者に対して投げかける(聞こえない)「叫び」を響かせることになる。デュラスもまたゴダールと同様、イメージの持つ「真」を記録する権能に惹かれつつ、それを別の音響=映像とモンタージュすることで新しい何かを生み出す権能にも惹かれている(後者の方に一層惹かれていることは明らかであるが)。そうしたイメージの二つの権能の間のせめぎ合いが、ゴダールにおいてもデュラスにおいても、最も如実に浮かび上がるのが、強制収容所という問題であったのだ。

さて、最後にデュラスにおける「書く」ことについて述べておく。テクスト『オーレリア・シュタイナー』三部作は(それを語っている映画版二作も含め)、「私は書く」という言葉で終わる。直接的にはここでオーレリアが「書く」のは手紙、ではあるのだが、目的語を省くことで「書く」ことは、単に手紙を書く以上に生そのものに関わる根源的な行為をも指すことになる。このようにごく日常的で素朴な行為を、ごく単純な手つきで一挙に精神的な次元に高めるのはいかにもデュラス的である(映画においても、映像と音をズラすというごく単純な操作でどこでもない、いつでもない時空が成立していたように)。「書かれたものは神とかかわる」(『緑の眼』、「オーレリア・オーレリア・4」)ともデュラスは述べている。死を超えて生き延びること、その方途としての書くことは、当然宗教的な色彩を帯びるだろう。とは言え、それはユダヤ人の運命というようなそれ自体崇高な主題に限らず、例えば『アガタ』におけるように自身の思春期を書くことでもあり、デュラスにあってはそうしたごく個人的な出来事を「書く」ことがそのまま、既述のように「愛」を巡る詩的で哲学的でもある思考に昇華される。

ミシェル・ロンスダール
ともあれここで、「語る」ことではなく、「書く」ということがデュラスの中で重視され始める。『インディア・ソング』で副領事を演じたデュラスにとって特権的な俳優ミシェル・ロンスダールによれば、「(デュラスは)忘れられた記憶の唯一の場所とは、エクリチュールなんだと言っていた。映像というのは忘却しない、それはぞっとすることですらある」と述べ、デュラスの中で「優位に立とうとしているのは(…)作家の方だ」としている。ここでもまた映像が持つ「真」を記録する権能へのある種の嫌悪が語られており、デュラスのイメージ観を再び明らかにしてくれるのだが、ともあれデュラスにとって活動の場が、映像から再びエクリチュールの方にシフトして行きつつあることが分かる。ロンスダールのこの言葉が載っているのは『デュラス 映画を語る』、デュラスの作品集がVHSに収められる際に付録として撮られたインタビュー中のもので83年時点のもの。デュラスは84年の『子どもたち』を最後に映画を撮ることをやめるのだし、同年には『愛人ラマン』以降の再び旺盛な作家活動に入る。確かにデュラスにとってエクリチュールの方が活動の主になってゆく。そのシフトには、例えば映画を撮る体力がなくなった(80年代以降デュラスは健康を害し、度々入院、アルコール異存治療で入院している上、88年には人工的に昏睡状態に置かれている)、という外的な事情もあるだろうが、それ以上に、言葉に対する認識の変化があるだろう。言葉を映像との葛藤の中に置くことで言葉の現前性を消去するまでもなく、言葉そのものが祖国なき「記憶」、出自を欠いた残響であり、だからこそどこにでも、いつでも現れ、誰のものでもなく、誰のものでもありうる。言葉は、それ自体で脱領土的なものなのでありうる、という認識が、デュラスをして映画を離れさせ、エクリチュールに回帰させたのだ。しかしそれは映画を撮る以前にすっかり戻った、というわけのものではない。映画における現前性とその消去の操作(『インディア・ソング』三部作)、不在のもののイメージを巡る思考(『オーレリア・シュタイナー』ほか)の経験が、デュラスのエクリチュールを新たなものにしている。