コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 鈴木英夫<その14> 『九尾の狐と飛丸』をめぐって[前篇]   Text by 木全公彦
殺生石と「玉藻の前」に魅せられて
至徳2年(1385年)に、石は玄翁(げんのう)和尚によって打ち砕かれ、そのかけらが全国3ヶ所の高田と呼ばれる地に飛散したといわれる。かなづちのことを「げんのう」と呼ぶのはこの伝承が由来。栃木県那須郡那須町の賽の河原には、この玉藻の前にまつわる県指定の史跡「殺生石」がある。付近は亜硫酸ガスや硫化水素など有毒ガスがたちこめ、観光客の訪れる現在も、ガスがたちこめる日は近づくことが制限されるという。

元禄2(1689)年、3月下旬に江戸を出立した松尾芭蕉は、日光を経て那須ケ原に足を踏み入れる。知人の家に身を寄せた芭蕉は、案内されて玉藻の前の塚や殺生石を見学する。その景色と伝承に強く心を動かされた芭蕉は、「奥の細道」で「石の香や 夏草赤く 露暑し」という句を詠んだ。
殺生石近くにはその芭蕉の詠んだ句が刻まれた句碑が立っている。

【那須高原ガイド】

中島源太郎もこの伝説に大きく心を動かされた。1926年2月11日、中島源太郎は中島飛行機製作所の創設者、中島知久平の長男(庶子)として生まれた。本籍・群馬県新田郡。幼いときに見た『キング・コング』(33、メリアン・C・クーパー&アーネスト・B・シュードサック監督)に興奮し、映画を愛好するようになる。戦中、NHKラジオが「玉藻の前」をラジオドラマとして放送していたことがあり、中島はこれを聞き、『キング・コング』を見たときの興奮をダブらせ、強い印象を残す。

慶應義塾大学経済学部に入学し、一か月に平均30本以上の映画を見る映画狂時代を送る。1950年同大学を卒業。1953年大映に入社。東京撮影所企画部に配属される。愛好する伝奇・SF趣味を生かして『宇宙人東京に現わる』(56、島耕二監督)の設定とストーリーを考案し、プロデューサーとして第一歩を踏む。以後、主なプロデュース作品に、『新夫婦読本 窓から見ないで』(61、富本壮吉監督)、『幼馴染というだけさ』(61、弓削太郎監督)、『明日を呼ぶ港』(61、島耕二監督)、『うるさい妹たち』(61、増村保造監督)、『黒の試走車』(62、増村保造監督)、『団地夫人』(62、枝川弘監督)、『背広の忍者』(63、弓削太郎監督)、『夜の配当』(64、田中重雄監督)、『視界ゼロの脱出』(63、村野鐵太郎監督)などがある。増村作品を除いて、あまりパッとしないフィルモグラフィは、中島の責任というよりは新人を育てない大映東京撮影所の体質を体現しているようで、少々不幸なキャリアである。『背広の忍者』と『夜の配当』は、「黒」シリーズにつながる大映ノワールの系譜に入る作品であるが、これも評価の高い作品とはいえない。これが中島の志向する特撮SFに強い東宝に入社していれば、あるいはその後の運命は変わっていたかもしれない。

大映時代の中島は、『キング・コング』が映画体験の原点であったから、当然のことながら、「玉藻の前」の映画化に執着する。一度は山本富士子主演で映画化を企画するが、カネがかかりすぎるという理由で却下される。ならばアニメーションでやりたいと、折から東映が長篇アニメーションの製作を開始したことを横目にしながら、再三再四企画書を出すが、これも却下される。思いつめた中島は、「玉藻の前」を自分で製作するために1963年大映を退社する。大映に在籍したのはちょうど10年間だった。

(以下、続く)