コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 鈴木英夫<その14> 『九尾の狐と飛丸』をめぐって[前篇]   Text by 木全公彦
和製フィルムノワールの名手である鈴木英夫と長篇アニメーションという組み合わせは、なかなか想像しがたいものがある。それも題材は九尾の狐とくると、意外な感じがする。わたしが聞いた鈴木本人の回想によると、日本動画製作の長篇アニメーション『九尾の狐と飛丸』(68)に鈴木が参加することになったきっかけは、大映の後輩である増村保造の依頼によるものだったという。

幻の映画、あるいは呪われたアニメ
日本アニメーションの歴史を記述した信頼すべき資料「日本アニメーション映画史」(山口旦訓、渡辺泰著、プラネット編、有文社、1977年)によると、『九尾の狐と飛丸』は、元大映のプロデューサーであった中島源太郎が設立した日本動画が製作した唯一の長篇アニメーションで、「作品自体は地味な内容ながらクライマックスの玉藻と飛丸の戦いは迫力があり、動画本来の面白さは充分あった。日本画調の色彩設計も見応えがあり、あまり評価されずに忘れ去られるのは惜しい佳作であった」(同書)と書かれてある。

『九尾の狐と飛丸』は、1968年10月19日、配給を担当した大映系列の劇場で公開された。併映作品は、理研映画と毎日新聞社共同製作の明治百年記念映画『日本人ここに在り』(島内利男、清水進共同監督)および日本損害保険協会の短篇広報映画『母と子の交通教室 危い!あなたの子が』。すでに経営基盤ががたついていた大映としては配給だけを請け負った作品の三本立てで、捨て駒として封切られたのがモロ分かる番組で、ろくすっぽ宣伝もされずに封切られた。そして予想通り、興行的に惨敗を喫する。

気落ちした中島源太郎は、次回作に予定していた中国の怪異譚集の映画化『聊斎志異(りょうさいしい)』(『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』の原作)のアニメ化を断念し、かねてより周囲から勧められていた衆議院選に群馬二区から自民党の推薦で立候補し、当選し、政治家に転身する。安部派に属し、それから当選7回。のち竹下登内閣では1987年から1988年にかけて第109代文部大臣を務めるが、政界入りをきっかけに映画界からすっぱり足を洗ってしまう。

中島が設立した日本動画は、『九尾の狐と飛丸』を製作したあと、『白蛇伝』(58)など東映動画の監督として日本のアニメーションの歴史を開拓した藪下泰司を監督に迎えて、日本のアニメーションの歴史を俯瞰した『日本漫画映画発達史 漫画誕生』(71)、『日本漫画映画発達史 アニメ新画帖』(73)の二部作を製作し、わずか数年で解散してしまう。

 『九尾の狐と飛丸』のネガは、フィルムセンターに寄贈されることもなく、中島家が保管しているとされる。ところが中島源太郎が1992年に死去したあと(享年62)、空席になった群馬二区の補欠選挙に、源太郎の次男の中島洋次郎がNHKを辞めて立候補して当選するが、海上自衛隊の救難飛行艇開発問題に絡む受託収賄容疑で実刑判決を受けたのち、2001年に自殺したため(享年41)、現在ネガがどのような形になっているかまったく不明である。

中島源太郎の父は、国内最大の軍用飛行機製造会社であった中島飛行機製作所(のち富士重工)を創業し、また立憲政友会の代議士でもあった中島知久平である。つまり中島源太郎はその御曹司で、かなり裕福な家柄であった。彼は『九尾の狐と飛丸』の映画化するため、大映を退社し、日本動画という会社を設立し、莫大な私財を投じて映画を製作する。ところが興行的に惨敗したため、早い時期にテレビに放映権を売却した。70年代初頭にはテレビ放映され、わたしも子供の頃にそれで最初に見た記憶があるが、短い間で解散した独立プロの作品であるため、まともな上映プリントもなく、一部に熱心なファンがいたものの、現在に至るまでほとんど上映されない幻の作品となってしまっていた。

ところが、2010年にふいに小川町のneoneo坐で東京都立多摩図書館が所有する、おそらくは現存する唯一の上映プリントでの上映会が開かれ、再会を果たすことができたのであった。数人しか客のいないガラガラの会場で見直した作品は、噂どおりの傑作だったが、なにせまったく資料がない映画であるから、資料探索は困難を極めた。鈴木英夫と増村保造が関わったアニメというだけでなく、これはもう日本のアニメーションの歴史を語る上での重要なミッシング・リングではないか。そう思ったのだ。資料集めのかたわら、今年にはいってから、映画製作に携わった関係者に取材することができたので、以下その成果を発表したい。