映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第31回 アンドレ・プレヴィンのジャズ体験   その6 プレヴィンの“聖”三角形
コーニッグの退場と新規巻き直し
とはいえ三人のブラックリスティーのその後は大きく異なる。貪欲なまでにハリウッド復帰を願い様々な策を練ったトランボに対して、イギリス製のテレビ作品にゲリラ的に脚本を供給したハンター、そして映画界から完全に手を切ったコーニッグ…。で、そのコーニッグが新たな活路を見出したのがジャズ・レコード・プロデューサーの道だった。既にハリウッド時代から「ジャズタイム」というレーベルをコーニッグは持っていた。ここに、ディズニー・スタジオのアニメーター、ウォード・キンボール達が演奏するディキシーランド・ジャズを録音し発売。一定の評価は既に得ていたのだが、改めて同時代的なジャズをプロデュースするために組織したのが、その名も「コンテンポラリー」、即ち「同時代ジャズ」というネーミングのレコード会社である。ベーシスト、ハワード・ラムゼイ、ドラマー、シェリー・マン、トランペッター、ショーティ・ロジャーズ等、活きのいい若手がここから巣立ち、かくして「ウェスト・コースト(西海岸派)・ジャズ」という新たなブームを巻き起こすことになるのである。

MGM撮影所最年少で音楽監督の座についていたアンドレ・プレヴィンがコンテンポラリーと接触するきっかけは、彼の50年代初頭の軍務時代にある。しばし映画音楽の激務から離れたプレヴィンはこの時、改めてクラシック・ピアニスト修業を再開すると共に、ビバップ・ジャズの洗礼を受けている。チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー達バッパーの「エレガントとは程遠い垂直的なギザギザしたスタイル」に直に接することでプレヴィンのピアノ奏法も劇的に変化する。逆に言えばこの変化なくして「コンテンポラリー」との接触もなかったはずだ。MGMに戻った彼は『キス・ミー・ケイト』“Kiss Me Kate”(監督ジョージ・シドニー、53)、『日本人の勲章』“Bad Day at Black Rock”(監督ジョン・スタージェス、54)等の名作に音楽を供給しながら、ジャズ・クラブにも積極的に出没し腕を磨き、やがてショーティ・ロジャーズ・グループに入団。そして56年、運命的な出会いをシェリー・マンと果たすと、彼のトリオの一員としてコンテンポラリーから矢継ぎばやに傑作を送り出していくのである。プレヴィンがいなければコンテンポラリーとコーニッグの運命も変っていただろうが、同じくコーニッグの存在がなければプレヴィンのその後も間違いなく変っていたはずである。「コーニッグ」、不用意にドイツ語の読み方で「ケーニッヒ」と呼ばれることが日本では多い伝説的なプロデューサー。