海外版DVDを見てみた 第3回『モーリス・エンゲル=ルース・オーキンを見てみた』 Text by 吉田広明
恋人たちとロリポップ
『恋人たちとロリポップ』Lovers and lollipopsと
『結婚式と赤ちゃん』Weddings and babies
エンゲル=オーキンの二作目は、『恋人たちとロリポップ』(55)。五歳か六歳ほどの娘を持つ未亡人アンが昔の友人ラリーと付き合い始める。結婚を考え始める二人だが、娘ペギーは母親の愛情を取られるようで気に入らず、心ならずも邪魔をする、というもの。スチール写真だと可愛らしく見えないこともないし、実際映画でも場面によっては可愛い時もある(例えば、ソファに座って雑誌を読むラリーにもたれかかり、「ご本読んで」、とせがみ、「子供の本じゃないよ」というのに、「いいから」と読ませ、ラリーの口の動きを真似して見せるので、ラリーがふざけてゆっくり読んだり、急に早く読んだりすると、キャッキャとはしゃぎながら一生懸命真似したりする場面)。しかし駐車場でラリーを困らせようと隠れたり、買ってやるというおもちゃをわざと時間をかけて選んでうんざりさせたり、「サンドイッチは腐ってるし、しかも全部食べさせて、手を引っ張るから足をくじいたし、それに私を迷子にまでしたのよ」と、事実を出来る限り歪曲して母親に報告したり、と、母親を奪おうとする男に、全存在を賭けていじわるしようとする子供の姿は、やはりリアルで、憎たらしい。ちなみにエンゲルは三才時に父親をなくし、母子家庭に育ったらしく、『小さな逃亡者』でも『恋人たちとロリポップ』でも、主人公の子供の家庭が母子家庭なのには、エンゲル自身の家庭環境が反映されているのかもしれない。

ここでもやはりニューヨークが捉えられ、今回は自由の女神やニューヨーク近代美術館、チャイナタウン、メイシーズ百貨店など、観光地や人の集まる場所が多い。しかしそれぞれが巧妙に物語の中に溶け込んでいる。冒頭近くで、親子三人が訪れるMOMAでは、退屈したペギーは、一人離れて池のある中庭に下り、初めてラリーにもらったヨットのおもちゃを浮かべて遊んでいるが、ヨットは池の半ばで止まったまま、誰にも手が届かず、人々を困らせるのだが、そのヨットはまるで孤立してしまったペギーそのもののようだ。また、アンとラリーがデートで訪れる自由の女神像、その展望台に上り、下を見下ろすと、女神像の影が地面に写っているのが見え、その輪郭を二人の小さな子供がなぞりながら小走りに駆けている。何気ない風景だが、世界に子供がいるということの至福をじわりと感じさせる場面だ。こういう場面を見ると、確かにこの映画が、写真家によって撮られた映画なのだな、という感じがする。見る者に何かを感じさせる、しかし何気ない一瞬を切り取る繊細な感覚。しかし、それはフォトジェニックなイメージを切り取るということではない。例えば『小さな逃亡者』でも、ボードウォークの下、太陽光が板の隙間を通り、砂の上に縞状の影を描く、確かに見事なまでにフォトジェニックなイメージもあるのだが、エンゲル=オーキンは、むしろそうした印象的なショットを避け、あくまでさりげない日常の中の輝く瞬間を見出そうとしている。そのような意味で彼らは写真家なのであり、映画もまたその同じ精神をもって撮られているのだ。

『結婚式と赤ちゃん』
彼の第三作『結婚式と赤ちゃん』(58)では、付き合っていながら、なかなか結婚できないアルとベアのカップルが主人公。エンゲルとオーキンも知り合ってから結婚に至るまで十年近くかかったとされ、ここにも彼ら自身の自伝的な要素が入っているのかもしれない。アルは結婚式と赤ちゃんが専門の写真家で、しかし映画を撮るのが夢、という設定にも(前者はともかく)、エンゲル自身が投影されていると見ていいのだろう。ここでもやはりニューヨークの、今回はリトル・イタリー、グリニッジ・ヴィレッジ、クイーンズ地区がドキュメンタリー的に映し出されている。しかし『結婚式と赤ちゃん』が前の二作と違うのは、何より同時録音で撮られていることである。そのことで、前二作のように、整理された台詞ではなく、その場で(恐らくは)即興も含めて発せられた台詞が生々しく聞こえる。作られた感じではなく、任意の瞬間を切り取ってきたような感じ。その任意性の印象を強めているのが、登場人物たちが街中を歩く際のショットの撮り方で、彼らは街の風景の任意の一部でしかないように見える。彼らは画面の片隅を通り抜けていくだけなのだ。逆光で撮られた場面も多く、顔が判別できなかったりするのも、そうした印象を補強する。前二作では、あくまで主人公である登場人物が、ニューヨークの街中にいる、という印象だったのが、ここではニューヨークの街の方がメイン、という感じだ。登場人物とその背景が全く平等に扱われる。ある意味ラディカルな処理とは言えるだろう。しかしその分、日常の特権的な瞬間を捉えようとする意志も弱まってしまっているようには見えなくはなく、実際これぞという場面に欠けているのも確かだ。ちなみにベアを演じているのは北欧出身の女優ヴィヴェカ・リンドフォース、ドン・シーゲルの最初の妻(彼女自身にとってはシーゲルは三度目の夫)で、作中に出てくる男の子は、彼女とシーゲルの息子、クリストファー・ドナルド・シーゲル(その後ヴィヴェカの四番目の夫の名タボリを取り、クリストファー・タボリとして俳優として専らTVで活躍)。