海外版DVDを見てみた 第24回 エドガー・G・ウルマー Text by 吉田広明
A級ないしそれに類する作品
ウルマーは、『奇妙な女』からしばらく多少予算の潤沢な映画を撮る。『奇妙な女』(アメリカでDVD化)はヘディ・ラマールの主演作で、女優としてのキャリアアップを図ったラマールが自ら一部出資して、ウルマーに演出を委ねた。上昇欲に駆られた女の一代記。冒頭で少女時代のヒロインが、近所の泳げない男の子を川に突き落とし、その上で自分が助けたかのように装うところがあるが、その幼いころのヒロインを演じているのがウルマーの実の娘である。ヒロインは裕福な初老の材木商をたぶらかして結婚、その息子を誘惑して彼を殺させ、さらに息子を自殺に追い込み、材木商の幹部を誘惑(彼には真の愛情を抱くのだが)してこれも虜にする。しかし順調に行っていた人生も、何故かマウンテンマン姿の巡礼の説教師に、邪悪な女は石女となる、と宣告され(実際彼女は子を産めない体だと判明する)、そこから人生が狂いだす。

『野望の果て』かつて踏み台にした女と瓜二つ

『洞窟』ポスター
とある人物の出現で運命がとたんに狂い始めるという点は『野望の果て』も同様(アメリカでDVD化)。『野望の果て』はPRCの後身イーグル=ライオンの作品。PRCよりはよほど予算はあったようで、ウルマーには珍しく、広いセットで奥行きのある画面が見られる。ザカリー・スコット演じる青年は、孤児であったが、人生のそれぞれの時期で、女性を踏み台にして出世してゆく。しかしある時、昔からの彼の知り合いで、彼に批判的な男が、最も初期に踏み台にした女と瓜二つの女性を連れてくる。主人公はその女に恋愛感情を抱き、これから発つ世界一周ヨット旅行に誘うが、彼が破産させた男によって海に突き落とされ、溺れて死ぬ。『奇妙な女』、『野望の果て』はこのように同型の作品で、細部的にも似通ったところがある。共に運命を左右する復讐の神のような存在が現れること(なぜかマウンテンマンのような説教師、最初の女に瓜二つの女)。主人公が水回りに配置されること(『奇妙な女』では冒頭の川、初老の夫をその息子に殺させるのも川、『野望の果て』ではラストの海)。『青髭』の主人公も溺死していたが、ウルマー的人物は溺死することが多いと書いている批評家もいる(ジョン・ベルトンThe Hollywood Professional, vol.3)。それはウルマー的人物が運命によっていいように翻弄され、ついに圧殺されることの比喩でもある。ウルマーの遺作となった『洞窟』The Cavern(65)は第二次世界大戦末期、イタリアの洞窟に閉じ込められた英米、独、伊の軍人と民間人を描くものだが、この封じ込めも、そう考えれば溺死に通じるものになる。ちなみにここでも、いかなる努力も水泡に帰し、遂に一人が手榴弾で自殺。そのおかげで壁が崩れ、出口が見つかるという皮肉な結末を迎える。人間的努力など何の役にも立たない。人間を支配するのはただの偶然であり、ひいては(旧約的に無情な)神なのだ。

予算のある映画としてもう一本、ウルマーは、コンサートの様子を撮影する際のスタンダードを作り上げたとされる『カーネギー・ホール』(47)を撮る。ウルマーは音楽好きで、特にオペラは好きだったようだ。既述のように彼は20年代のウィーン、ベルリンという当時の西欧芸術の中心地にいて、しかも既に演劇の第一線で働いていた。彼の教養は相当高いものだったのではないかと思われる。そうした人物が大量生産のB級映画という場にいたこと、このギャップが彼の作品の強度を生んでいるような気はするのだが、そこにどんなマジックが働いているのかは、まだまだ筆者などには分からないとしか言いようがない。