海外版DVDを見てみた 第24回 エドガー・G・ウルマー Text by 吉田広明
エドガー・G・ウルマー
筆者は先日(2013年10月12日)、シネマヴェーラ渋谷でのウルマー特集上映の初日、黒沢清監督とトークを行ったのだが、その際ウルマーの作品をだいぶ見直した(と言っても現在見ることのできる作品の全てには達しなかったが)。ウルマーはアメリカ版500円DVDのアルファ・ヴィデオなどで元々かなりの数の作品が見られる状態ではあったのだが、ここ数年ワーナー・アーカイヴスなどでもいくつかDVD化され、かつ、ユーチューブ、インターネット・アーカイヴなどでも数多くの作品が見られるようになってきている。今回は、それらによって見直したウルマーについて、トークの場で話した事、話しそびれたことを含め書くこととする。

ウルマーの履歴~初長編演出以前
ウルマーの履歴と並行にその作歴を記してゆく(履歴に関し、ドイツ語では伝記Mann im Schatten : Der Filmemacher Edgar G. Ulmerが出ているが筆者はドイツ語が読めないので未参照、以下はアミアン映画祭のカタログを書籍化したYellow NowのEdgar G. Ulmer Le bandit démasqué巻末年譜、ピーター・ボグダノビッチによるウルマー・インタビューなどを参照した)。ウルマーの履歴は彼の作品を理解するうえで、というよりはまた別の意味で重要な気がする。その意味は後に判るだろう。

ウルマーは1904年、オーストリア=ハンガリー帝国のオロウメツ(現チェコ)に生まれる。周囲には1900年ウィーン生まれと言っていたようで、ウィーン生まれというのは都会的な生まれの印象を与えようと思ってのことだろうが、年齢をサバ読んでいる、しかも年上に、というのは意味がある。彼はウィーンの美術大学で建築を学び、恐らく在学中からマックス・ラインハルトの劇団に関わって、その舞台美術などを手伝うようになっている。その際、自分に箔をつけるために年齢を詐称していたのではないかと思われるのだ。彼は自分を神童だったというようなことをインタビューで言っているが、それが本当かどうかはともかく、相当早熟な人間であったことは確かだろう。そこでセット・デザイナーのロフス・グリーゼと出会い、彼を介してラインハルトの劇団の俳優、演出家出身の映画作家フリードリッヒ・ムルナウと出会うことにある。ベルリンのウーファで『カリガリ博士』(20)のセット他、アレキサンダー・コルダ、ミハエル・ケルテース(マイケル・カーティス)、マウリッツ・スティルレルなどの作品を手伝ったというが確証はないようだ。

1923年ラインハルトの劇団のニューヨーク公演に同行し、その際ユニヴァーサルと美術部と契約を結んでいる。その後ユニヴァーサルは彼を演出部に転向させ、演出修行をさせていることが記録に残っている。しかしその間もウルマーはベルリンでラインハルトの舞台美術やムルナウ作品(『最後の人』24、『タルチュフ』25、『ファウスト』26)を始め、フリッツ・ラング作品(『ニーベルンゲン』24、『メトロポリス』26、『M』31)などにも関わったと述べている。ユニヴァーサルの契約は専属ではなかったようである。ムルナウはともかく、ラングの方は本当かどうか怪しい気もするが、巨大な作品だけに関わったスタッフの数も半端なものではなかったろうから、その中の一人であったとしてもおかしくはない。しかし『M』の製作者シーモア・ネヴァンザルはその後のウルマーの人生に大きな役割を果たすので、その頃にどこかで知り合ってはいたのだろう。ともあれ当時ウルマーがハリウッドとベルリンを往還していたことは確かで、当時の映画の二大中心地、片やその最盛期、片や勃興期を二十代のウルマーは体感していたことになる。ハリウッドに渡ったムルナウの作品にもずっとついていて、『サンライズ』(27)、『四人の悪魔』Four Devils(28)、『シティ・ガール』City Girl(30)、遺作となる『タブウ』(31)まで関わる。ハリウッドではルビッチやデミルやワイラーの作品にも関わったとしているが、これもどこまで本当なのか。

アメリカのKINO発売、ウルマーを巡るドキュメンタリーEdgar G. Ulmer : The Man Off-screenの中でウルマーは(といってもウルマーの映像ではなく音声だけだが)、ムルナウの『最後の人』で、ドアを通ってカメラが滑らかに移動するシークエンス=ショットを撮りたいというムルナウの要求に対し、双子用の乳母車にカメラを載せることを思いついた、自分が最初にドリー撮影をやったと述べているが、これもどこまで信用していいのか。しかしそのドキュメンタリーでロジャー・コーマンが挙げているように、その後のウルマーの作品『黒猫』(34)では、地下室を主観視点のように移動するという同じようなカメラの動きが効果的に使われてもいて、あながち彼の言もまったく信用できないわけではない。後に彼が作ることになる低予算映画の製作日数にしても、すべて「六日で撮った」と答えているが、それが事実でないことは記録が明らかにしている(上記ドキュメンタリーで、『恐怖の回り道』の際の、ステージ撮影14日、ロケ撮影4日という記録をウルマーの娘が示している)。晩年の再評価の際のインタビューの発言なので、そこには自己神格化の欲望もあるのだろうが、虚言癖、とまで言わないにしても、相当吹いていることは確かだ。しかしそれもあながち嘘とばかりも言い切れない曖昧さが、実はウルマーの(人間としての)面白さではないかと思う(そしてそれはウルマーの映画そのものの魅力の根源にも触れるかもしれない)。

1929年ウルマーは、パルファメト協定(パラマウント、ウーファ、MGMの相互配給協定)の映画製作のためベルリンに行き、そこで(パルファメトの映画作品とは別に)ロベルト・ジオドマクらの自主製作映画『日曜日の人々』(29)に関わる。この作品に対するウルマー自身の寄与がどの程度のものだったのかははっきり分からないが、シオドマク論者はシオドマクの寄与を、ウルマー論者はウルマーの寄与を大きく語りたがる傾向があるとしても、ウルマーがこの映画の製作途中で抜け、ムルナウの『タブウ』の製作最終段階に向かったこと、シオドマクが仕上げまで持って行き、最終責任を負ったことは間違いない。ウルマーは『タブウ』後、MGMの美術、独立プロ作品での演出(西部劇を撮ったと言っている)などするが、公開すらされなかったものもあるようだ。