海外版DVDを見てみた 第24回 エドガー・G・ウルマー Text by 吉田広明
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1942年、ウルマーはハリウッドに帰還する。当時PRCにいた製作者シーモア・ネヴァンザルの招きによるもの。PRCはプロデューサーズ・リリーシング・コーポレーション、39年から、47年にアーサー・ランクによって買収されイーグル=ライオンとなるまでの十年に満たない期間存続したB級映画専門の製作会社。B級の中でも規模的には最低ランクながら、ウルマーの諸作によって、またイーグル=ライオンとなってからはアンソニー・マンのフィルム・ノワールによって、質的にはどのB級映画製作会社よりも映画史的に貴重な作品を残してくれた会社である。ネベンザルは前記したようにラングの『M』を製作しており、あるいはその際ウルマーと知り合っていた可能性がある。ネベンザルはウルマーのPRCでの第一作『明日に生きる』Tomorrow We Live(42、アルファ・ヴィデオでDVD化)を製作。田舎町で、出征する兵士と狂気に憑かれたギャングとの間に三角関係に陥る女を描く犯罪メロドラマ。これを皮切りに、ウルマーは42年から45年の四年間に十一本の作品をPRCで撮る。その中には、ジョン・フォード『ハリケーン』(37)のセットを流用した(ムルナウの『タブウ』を手伝っていた頃アイディアを得たというので、この映画はフォードとムルナウがウルマーの名のもとにつながってしまう映画でもある)『忘れられた罪の島』Isle of Forgotten Sin(43、上記Edgar G. Ulmer : The Man Off-screenにおまけとして収録)、様々な過去や事情を抱えた複数の人物たちの人生が、ある一点で交錯する「グランドホテル」形式をたった一時間でやってしまった『クラブ・ハヴァナ』Club Havana(45、ワーナー・アーカイヴスでDVD化)など、いかにもB級らしい大胆な剽窃というか、心ある踏襲によって出来上がった作品もある。

『奇妙な幻影』ポスター

『青髭』のジョン・キャラダイン

『青髭』で犯人の描いた絵を前にする刑事
筆者にとってPRC時代のウルマーの代表作はやはり『青髭』Blue Beard(44、アルファ・ヴィデオ、および上記Edgar G. Ulmer : Archive所収)、『奇妙な幻影』Strange Illusion(45、アルファ・ヴィデオでDVD化)、『恐怖の回り道』Detour(45、アメリカで様々な形でDVD化)の三本である。『青髭』は、ジョン・キャラダインが十九世紀パリの連続殺人鬼を演じる。彼の表の顔は人形使いだが、とは言ってもグノーのオペラ『ファウスト』を人形で演じるので、高踏なものである。この人形は特注で作らせたものであるようで、PRCの製作者レオン・フロンケスは躊躇したようだが、ウルマーはPRCで製作、美術およびシナリオについて、製作者から相談を受ける、いわばスーパーヴァイザーのような立場になっていたので、ある程度大目に見られたのではないか。さて、ジョン・キャラダインは実は絵描きが本職である。しかし絵を描くことを自身に禁じている。と言うのも、彼はかつてある行き倒れになった女性を題材に聖女の絵を描いたのだが、いつか彼のもとを去ったその女性は実は娼婦で、彼女を場末で発見した彼は、彼女を連れ戻そうとしてあざ笑われ、彼女を殺してしまう。以後、絵が完成に近づくとその過去を思い出し、彼はモデルの女性を殺害しないではいられなくなってしまうのだ。芸術的衝動と殺戮衝動が同期する。ウルマーの代表作には、芸術家を主人公とした作品がある。『黒猫』のカーロフは世界的建築家であったし、『恐怖の回り道』の主人公はピアニストであった。しかしこの二例の場合、芸術家であることは必ずしもその人物の陥る悲劇に密接な関係があるわけではないのに対し、『青髭』の場合、彼の芸術家としての存在は、彼の犯罪者としてのありようと切っても切り離せないものとなっている。ボードレールは犯罪者を芸術家に、探偵を批評家に例えたが、犯罪者と芸術家の同一性を本作ほど宿命的なものとして描いたものは無いのではないか。では批評家=探偵に当たるものがいるのかというと、確かに警察や、その手先として囮になることを買って出る女性がいるにはいるが、キャラダインの巨大さに匹敵する者ではない。犯罪者が滅びるのは、犯罪者自身がその強い衝動に耐えきれないからであって、自滅に近い。犯罪者=芸術家ばかりがいて、探偵=批評家のいない世界。なおかつ、芸術家=犯罪者の芸術自体、決して完成することが無い。女性が無垢であり、聖性を帯びていなければ絵は完成することがなく、そのような女性は決して存在しないからだ。『青髭』の世界は不完全なものである。そしてその不完全性は、ウルマーの世界そのものの性質と言ってよいのではないか。ところでキャラダインがその過去のトラウマを語る場面では、終始カメラが傾けられ、画面が斜めに傾いでいる。単純なことだが効果的。『テキサス上空の雷』でもカメラを傾げることで坂道を表現するというおかしなことをやっていたと記したが、こうした偏り(歪み)もウルマーの(視覚的)特徴である。

『奇妙な幻影』主人公は双眼鏡で重要な発見を

『恐怖の回り道』鏡に映る悲惨な結末
『奇妙な幻影』で、主人公の青年は奇妙な夢を見る。それは父の車が列車に轢かれて父が死んだ際の映像と、誰か父ではない顔が陰に包まれた男が自分の父を名乗るという映像から成るものだった。前者においては、父の車を後ろから押し出しているトラックが見えていて、父の事故が過失ではなく故意によるものであることが明かされており、一方後者では、母が再婚しようとしている未来が告げられ、しかもそれが明るいものではないことが示唆される。主人公は一つの夢で過去と未来の両方を見ていることになる。当然ながら父を殺した男と、母が再婚しようとする男は同一人物。主人公はその男と、その男の協力者であるらしい精神科医の正体を突き止めるため、精神科医の病院に神経衰弱を装って入院する。この精神病院がまた変なところで、主人公が入院直後、玄関上の二階から自分を送ってきた車が玄関先を出てゆくのを見送る際、何故かスクリーン・プロセスが使用されている(ように見えるのだがどうだろう)。主人公の部屋にはマジックミラーが仕掛けてあったり、病院の近辺に過去の事件の重大な証拠が隠されている納屋が存在するのだが、それが導入されるのが屋上で主人公が除く双眼鏡だったり、と、本作には至る所、光学的な仕掛けが散りばめられているのだ。本作にとって重要な役割を果たす夢自体も、視覚的イメージとして現れるのだから、それらと同じ範疇に入るだろう。思えば『青髭』でも、自身の正体を知られたくないジョン・キャラダインは、モデルに姿を見られないよう鏡を使って肖像画を描く(その間接性に業を煮やして姿を現してしまうために彼は自滅する。というわけでも実はないが、ともあれその時の作品が最後の作品となってしまうのは確か)。『恐怖の回り道』でも、主人公のファム・ファタル殺害は、それ自体が画面に映るわけではなく、その結果だけが鏡に映った映像として示される。ウルマーは決定的な瞬間、あるいは物語上重要な結節点に、このようなイメージ(映るもの)を置く。