海外版DVDを見てみた 第15回 『ゲット・カーター』を見てみた Text by 吉田広明
イギリスのネオ・ノワール
こうして見ると『ゲット・カーター』は、ホッジスの作歴の中でもむしろ例外的なものなのかも知れないと思える。作品全体を通して確かにあまり説明らしい説明をしない簡潔でぶっきらぼうな語りという特徴は見られ、また『パルプ』におけるパロディ性、『死に行く者への祈り』に出てくる葬儀屋兄弟とクレイ兄弟の類似、『ブラザー・ハート』との筋の類似等、『ゲット・カーター』とその後の諸作の関係は確かに見つけられなくはないものの、しかし『ゲット・カーター』の残虐さ、ハードさは唯一無二のものだ。それは無論、七十年代初頭のイギリスの社会情勢にも根拠を持つものではあろうが、といって具体的に社会情勢がどのように影響しているのかもはっきり分からない。実際イギリスのネオ・ノワールの特徴についてまだ筆者にはよく分かっておらず、今後それに属する作品を取り上げてゆく中で考えていこうと思っているわけだが、一つ面白い指摘をイギリスのアンドリュー・スパイサーがしていて、イギリスでは、ハマーによるゴシック・ホラー(クリストファー・リーによる一連のドラキュラもの、ピーター・カッシングによる一連のフラケンシュタインものなど、テレンス・フッシャーを主な演出者とするホラー)が、「心理的異常、常軌を逸したセクシュアリティ、病理的暴力などの主たる表現媒体となった。ゴシック・ホラーと、犯罪映画の生々しいリアリズムのこの分離こそが、その後のノワールの明確なトーンと主題をもたらすことになる」(Film noir)。精神異常や、エロティシズムはハマー作品の独壇場となり、ノワールは生々しいリアリズムに特化していった、ということだ。ネオ・ノワール作品も一枚岩ではなく、一概にそうとも言い切れない気はするものの、アメリカのネオ・ノワールに典型的なファム・ファタル(『チャイナタウン』のフェイ・ダナウェイ、『白いドレスの女』のキャスリン・ターナー、『ホット・スポット』のジェニファー・コネリーなど)が、イギリスのネオ・ノワールにはほとんどいないことを考えると、確かにそうだという気もする。『ゲット・カーター』において、セックスはエロティシズム、という心理的なものであるよりは一層生々しい、露骨なものであり、暴力の延長線上のものとして捉えられていた。

ともあれ以後しばらくはイギリスのネオ・ノワールを扱って見ようと思う。

『ゲット・カーター』はアメリカ、イギリス共にワーナーからDVDが発売されている。アメリカ版は英語と仏語、イギリス版(無論Pal)は英語、アラビア語、ルーマニア語、ブルガリア語字幕がつく。