海外版DVDを見てみた 第15回 『ゲット・カーター』を見てみた Text by 吉田広明
エリックを追い詰めるカーター

復讐を終えたカーター
『ゲット・カーター』その3
ここから事態は一気に加速する。カーターは、自分をキニアに向かわせるため、そのフィルムをグレンダを介して見させたブランビーを、さんざん殴り倒した後、例の巨大立体駐車場最上階から突き落として殺害、フィルムの中で姪を犯していた男をナイフで腹をめった刺しにして殺害、姪をエリックにあっせんした弟の二人目の妻を純度の高い麻薬を使って殺害、麻薬と乱交のパーティを開いているキニア邸の池に捨て置いたうえで警察に密告、加えてポルノ・フィルムをスコットランド・ヤードに匿名で送りつける。最後に弟を殺した実行犯エリックを早朝の人気ない海辺に連れ出し、ショットガンで脅しながら逃げ回らせ、ゼイゼイいっているところに、エリックが弟にそうしたようにウィスキーの瓶を口に突っ込んで、むせかえるのを抑えつけながら飲ませたうえで、ショットガンの銃把で殴り殺す(射殺でなく)のだ。そしてその死体を、砂だか砂利だかを沖に捨てるためのゴンドラのようなものに乗せ、死体が砂と共に海に投げ捨てられるのを見、ようやく解放された気分で海辺を歩いている時、手にしたショットガンを見る。用済みとばかりにそれを海に投げ捨てようとした瞬間、身の危険を感じたキニアが雇っていたスナイパーによってあっさり射殺される。額に穴があき、眼を開いたままの死体に、波が静かに打ち寄せる。その死体を突き放すようにロングで捉えた映像で、全編は終えられる。

カーターが次々と人を殺し、死体の山が築きあげられてゆく。その殺害方法は残虐で、しかも最後のエリックを除いては、殺す際にカーターは顔色一つ変えることがない。この一連の場面は、確かに残酷ではあるのだが、あまりにも表現がぶっきらぼうなのと、殺害があまりにも次々起こるのとで、どこかスラップスティックな感じすら漂っている。まるで機械の機能ぶりを見ているかのようなのだ。しかし考えてみればこの映画全体がそういうものであり、この最後の一連の場面は、それを凝縮的に示したものとも言える。ぶっきらぼうに突き放した視点。残酷な場面、エロティックな場面はあっても、あまりにも過度(それが起こる速度、紋切り型)なため、感情移入を拒否するかのようで、隠微さを欠いている。そもそもカーターが弟に対し、どれだけの愛情を抱いていたのかもよく分からない。復讐とはいっても、そこに感情の高ぶりが見られないのだ。だからこそカーターの行為は、殺しのための殺しでしかなく、残虐行為が自己目的化しているように見える。端的に言ってこの映画にはモラルが欠けている。確かにカーターが死ぬことで、この映画はアモラルであるという非難をかろうじて逃れてはいるにしても、それが方便であることは誰の目にも明らかだろう。しかし一方で、登場人物のほとんどが死ぬという結末が終末論的な暗さを漂わせることになってはいるので、単に方便というだけではないのだが。