海外版DVDを見てみた 第7回『ビル・ダグラスを見てみた』 Text by 吉田広明
ビル・ダグラスの青年期
ビルはその後、恐らくそうした家庭環境を逃れる意味もあり、イギリス空軍に入隊、エジプトのスエズ運河に配属される。そこで同僚だったのが、生涯の友となるピーター・ジュエルPeter Jewell。ジュエルは読書家で、芸術にも造詣が深く、ビルは彼から芸術に関する多くのことを教わり、彼を「わが師」と呼ぶことになる。トリロジーの三作目『わが帰路』My Way Home(78)では、このジュエルとの出会いを描いている。除隊後ビルは、エジンバラに戻った後、ロンドンに出て、本格的に芸術家の道を歩き出すことになる。ピーターとはその後ずっと共同生活を送ることになり、ピーターは生涯を通して常にビルの助言者であり続けた。二人の関係を同性愛とするものもあるが、DVD映像特典のドキュメンタリーではジュエル自身はそれを否定している。

彼の芸術家への道は二つ。一方で俳優、他方でシナリオ執筆、映画監督を目指した。先ず俳優として、ビルは50年代後半、ジョーン・リトルウッド主催のシアター・ワークショップに研修生として入所、一年をそこに学ぶ。ジョーン・リトルウッドはイギリスで「現代演劇の母」と呼ばれているそうで、代表的な演出作に、後にフリー・シネマのトニー・リチャードソンが61年に映画化したシェラ・デラニー作『蜜の味』、その後リチャード・アッテンボローの初監督作として映画化(69)されたシアター・ワークショップの集団共作になる戦争風刺劇『素晴らしき戦争』があり、ブレヒトの『肝っ玉おっかあとその子供たち』をイギリスで初演出した演出家として知られる。ウッドワードのモットーは「演技するな」だったそうで、何らかの物語に観客を没入させるような演技への拒否は、その後のビル・ダグラスの映画に影響を与えているとみて間違いないように思える。役者としては連続TVドラマ『若い世代』The Younger Generationに出たりしたようだが、あまり役者としては大成しなかったようだ。

一方、60年代半ばにはその後『トリロジー』として結実する自伝的シナリオ「ジェイミー」を書き、リンゼイ・アンダーソンに送って、助言を求めている。アンダーソンが具体的に何を助言したかは不明だが、DVD付録の解説によれば、アンダーソンはビルにとってもう一人の「師匠」となった。その後、ピーター・ジュエルがビルの誕生日プレゼントに8ミリカメラを贈り、ビルの映画作りへの意思はいよいよ固く、ビルはロンドン・フィルム・スクールに入学する。そこに数年在籍し、卒業製作の短編『カム・ダンシング』Come Dancing(70、何と訳していいのか分からないので原題のまま。これも『トリロジー』映像特典として収められている。二人の男が波止場のカフェで出会い、一方がホモ的な関心で迫ってくるのをもう一方がナイフで撃退する)を撮って卒業した後ビルは、リンゼー・アンダーソンとBFIのマムーン・ハッサンの助力で、 シナリオ「ジェイミー」の映画化となる三部作に着手することになる。思えばビル・ダグラスは、映画学校で映画作りを学んでから本格的に映画作りに乗り出していると言う意味で、また、自分の個人的な映画世界の実現に執着すると言う意味で、フランス(IDHECやその後継FEMIS)やドイツ(各地の国立映画学校)において大量に生まれ出る、映画学校出身の映画作家(フランスならルイ・マル、コスタ・ガヴラス、ドイツならヴィム・ヴェンダースら)の同時代的な作家であり、また先駆であった。しかしフランスや、特にドイツにおいて、彼らが(各作家の嗜好はバラバラであっても)一つの大きな流れを形成しえたのに対し、ビル・ダグラスの場合は、ほぼ孤立しており、それが彼の存在を忘れさせることになったのは間違いない。しかしそれは同世代の映画作家の不在のせいでもあるけれども、同時に彼の映画が、何か他の映画作家と共通分母でくくりうるようなテーマ性を持たない独自なものだったせいでもあるように、実際の作品を見ると思う。