ロンドンとリリアン・ギッシュ Text by 大塚真琴   第1回 ロンドンI
ケヴィン・ブラウンロウ
無声映画そのものを観る機会は殆どなかったけれど、リリアン・ギッシュのことを考えると当時の映画界にも興味がわいて、名前しか聞いたことのない映画監督やアニタ・ルースやフランセス・マリオンなどの脚本家の本も注文するようになった。そしてある時、私はアベル・ガンスの本を彼に注文した。彼は何冊か本を探してくれて、私はその内の3冊を選んで買った。2冊の本ともう一つは1981年にエディンバラで『ナポレオン』(25—27)が上映された時のパンフレットでアベル・ガンスのサインが入っているものだった。やがて届いた小包を開けて私は驚いた。フレッドはわざわざ本の著者であるケヴィン・ブラウンロウさんを店に呼んで、私のためにサインをしてもらってくれていたのだ。ケヴィンは映画史家でフィルムのコレクターであり、アベル・ガンスの『ナポレオン』を復元、上映したことで世界的にその名を知られている人物だった。ケヴィンを意識したのはこの時が最初で、その時の私は彼が大変に有名な人物であることを全く知らなかったのである。ケヴィンの本には幼い頃の『ナポレオン』のフィルムの断片との出会いから、フランスにアベル・ガンスに会いに行った時のこと、そして復元のことなどが詳しく書かれていた。私は読みながらなんとなく、この人ならリリアン・ギッシュのこともよく知っているのではないかと思った。それからふと思い立って、それまでに買ったたくさんの無声映画関係の本を開くと、謝辞のところに必ずと言っていいほどケヴィンの名前があることに気付いた。この人はきっとものすごい研究者なのだろう。この人ならリリアン・ギッシュに近づけるかもしれない。私は手紙を書くことにした。
フレッドに住所を教えてもらい、私はまた下手な英語で必死に手紙を書いてケヴィンに送った。リリアン・ギッシュが好きであること、無声映画について知りたいと書いた。やがてケヴィンは涙が出るほどに優しい手紙を本と一緒に送ってくれた。本はグリフィスの撮影助手をしていたカール・ブラウンが書いた「D・W・グリフィスとの冒険」だった。
これが私とケヴィンの出会いである。

私が映画を観るようになったのは18歳の頃からであるから、子供の頃から浴びるように観ていたという評論家や研究者とは全く違う。映画の見方も特にこれといったお手本があるわけではないから、単純に興味がわいたものを観に行っていた。映画評論家の本も少しは読んで観る時の参考にはしたが、この人が褒めているからいい映画だというようには考えなかった。体全体がぞくぞくするような映画に出会うと嬉しく、そういう映画にまた出会いたいと願った。満足感が得られない映画も数えきれないくらい観た。そしてある時D・W・グリフィス監督の『嵐の孤児』(21)を観た私は目の前にあるものの大きさに圧倒されたのである。この世にはこんなにすごい監督がいて、こんな女優さんがいたのかと思った。あまりの衝撃に自分の存在がとても小さく感じられたほどである。そうして自分が探し求めていた何かに出会った気がした。うまく言えないけれど、何かに呼ばれているような気がしたのである。背中を押されるような、そんな感覚である。こちらへいらっしゃいという声を確かに聞いたと私は思った。そして翻訳されていたリリアン・ギッシュの自伝を読んだ私は、後からその自伝を読み終わった日に彼女が亡くなっていたことを知った。
これが私とリリアン・ギッシュの出会いである。

遠くから呼ばれているような不思議な感覚を感じながら、目に見えないものをつかまえたいという純粋な気持ちで私はフレッドとケヴィンに手紙を書き続けた。無声映画の知識は皆無に等しい、けれども中途半端な予備知識はかえって見えるものを見えなくしてしまうかもしれない。ケヴィンが生まれて初めて出会った無声映画の専門家であるのなら、いっそのこと何も知らない真っ白の状態でそこにあるものを吸収したほうがいいと私は思った。それは無謀な試みだったかもしれないけれど、映画への、無声映画への、そしてリリアン・ギッシュへの思いがあまりにも真剣だったから、そのようにしか考えることができなかったのである。
そうして二人に手紙を書き続けているうちに、私はどうしてもまたロンドンに行きたくなった。アルバイトを二つ掛け持ちしていたけれど、やはりそこまでのお金がなかったので、この時は両親に頼みこんで結婚費用も使わせてもらうことにした。最初にロンドンに行ってから3年が経とうとしていた。