ロンドンとリリアン・ギッシュ Text by 大塚真琴   第1回 ロンドンI
リリアン・ギッシュ
シネマ・ブックショップ
サマセット・モームのコレクションを売ったという知らせがフレッド・ゼントナーさんから届いたのはおととしの初めだった。彼はモームに心酔していて、昔からモームの本や映画のポスターなどを集めていた。送られてきたブルームズベリ・オークションの立派なカタログを見て、こんなにたくさんのコレクションがあったのかと驚かされた。何冊もの初版本、著者のサイン付きのもの、映画のポスター、写真、肖像画にメダリオンまで入っている。モームに疎い私にでさえ、目の前にあるものが信じがたく貴重なものばかりであることがわかる。一体どこでどのようにして手に入れたのだろうと思うのと同時に彼の奥の深さと幅の広さを改めて思い知らされた気がした。

私が彼と出会ったのは今から20年ほど前になる。彼はロンドンのトテナム・コート・ロードでシネマ・ブックショップという映画専門の本屋をやっていた。駅から大英博物館に向かう途中の角っこにある小さな本屋だったが、小さいけれど何でもある本屋だった。幅の狭い扉を押しあけると(少し力が必要だった)もう目の前に本棚がせまってくるような、店の中が天井まで届くかと思われる本棚に囲まれているような様子だった。そして、その囲みの真ん中にも大きなテーブルが置いてあり、その上にも本が山積みにされていた。扉を入って左手の奥にカウンターがあり、カウンターの後ろの棚には本や写真がぎっしりと詰まっていた。そしてカウンターの奥にも小さな部屋があり、そこにはファクスの置かれた机と本棚があって本棚にはやはり本がたくさん入っていた。そこは主に貴重な本や台本や、予約したお客さんの本を置いていたようだった。カウンターの脇に地下に続く薄暗い階段があり、階段沿いの壁には世界中から送られてきたと思われる本の注文の手紙や、彼のメモがびっしりと貼られていた。
私はロンドンに留学していた時に知り合いからこの本屋を教えられて行ったのであるが、店に入った瞬間に何か言葉にできない不思議な魅力にとりつかれたようになってしまった。彼の店には新しい本も古い本も同じように置いてあり、その古本のにおいまで嬉しくなったものである。彼はカウンターの後ろでよくホットチョコレートを飲んだりクッキーをつまんだりしながら客の相手をしていた。煙草もよく吸っていた。多分、今その煙草のにおいを嗅いだら、私はなまなましく当時の店の空気を思い出すことになるだろう。
私がロンドンに来た一番の理由は、無声映画の大女優、リリアン・ギッシュのことが知りたかったからだった。ロンドンに行く2年ほど前に彼女の映画を観て以来、どうしたら彼女に近づけるだろうかとそればかり考えていたのである。無声映画のことをわかりやすく解説したような本は見当たらず、私はただどこかから呼ばれているような不思議な感覚を身におぼえながら彼女のことを思い続けるしかなかった。だから、最初に彼の店に入った時も、まっさきに尋ねたのはリリアン・ギッシュのことだったし、ここなら必ず本があるだろうという期待が当たり前のように湧き上がってきたのであった。

「Dorothy and Lillian Gish」
彼はすぐに地下から「Dorothy and Lillian Gish」というリリアン・ギッシュと妹のドロシーの写真を年代ごとにまとめた本と、リリアン・ギッシュの自伝のアメリカでの初版本を持ってきてくれた。写真もあるよと彼はリリアン・ギッシュの美しい写真を一枚出してくれたけれど、お金がそんなになかったのでとりあえず本だけを買うことにした。彼はにっこり笑って、じゃ、この写真は君へのプレゼントだよと言って写真を本の間に挟んで渡してくれた。
これが、私とフレッドの最初の出会いである。