映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第71回 「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」物語 その1
追悼・中山康樹
ここまで書いたら私が寄稿している雑誌「映画芸術」最新451号が届いた。たいした本じゃない(いつものことだ)が、この表紙はいい。リアルタイムで見たかった映画『緋牡丹博徒 お竜参上』(監督加藤泰、70)である。なんて偉そうにすらすら書いているが、最近オメガ脂肪酸不足が深刻でタイトルが出てこなかった。目次クレジットを読んだおかげである、多謝。昔、お茶の水にあった日仏会館のホール「加藤泰特集」で見たのが最初で製作から十数年後だったわけか。登壇した監督の語りも快調で、私も「松竹時代から菅原文太さんを演出していらっしゃいますよね、どんな方でしたか」と客席から質問したのを思い出す。監督がどう答えたか、覚えていないのが情けない。
この雑誌、私はいつもアンケートしか依頼されないが、今回もとても切れ味鋭い文章になっているので、私のところだけちゃんと読んでいただければ嬉しい。今回のアンケートのテーマは「やくざ映画」。原稿依頼の文字数制限を無視している者が相変わらず数名いる。ところでこの表紙の藤純子さん、もちろん70年当時は「じゅんこ」だが、数年前たまたま映画好きの人々と語らっている時にぽろっと、確か今は「すみこ」だよね、と言ったところ、私以外全員が「ウッソで~ッ!」の大合唱。多数決で否決されてしまったが、私がいつも正しい。多分、彼女が「三時のあなた」司会者として芸能界復帰する時に「すみこです」って自分から言った、といういい加減な記憶があるのだ。またもここまで書いて、そういうことはネットの辞書を引けばきちっと書かれてあったりするのではないか、と思いついたが間違いだった場合に直す必要が出てくるので、怖くて引けない。皆さまも特に調べなくていいからね。とにかく現在「すみこ」の名前も使っていることは通販化粧品のCMで証明ずみだ。映画だと「じゅんこ」、それ以外は「すみこ」とか、何か決まりごとがあるのかもしれないな、それとも復帰後は完全に「すみこ」で復帰前の映画を紹介する際の名前で「じゅんこ」を使用しているだけとか。実際的にはこっちの方がありそうだ。またいい加減なことを当てずっぽうで書いてしまった。
それで実は問題なのはここではやくざ映画じゃない。えっ、違うの、と反応される方が何名いるか分からないが、あくまで問題はマイルスだ。当然であろう。マイルスがテーマなんだから。実は今回の「映画芸術」には「追悼・中山康樹」の小コーナーがある。それを言いたかった。

この方の名前を本連載がらみで記憶している方はそう多くはないであろうが、第43回第44回でちゃんと述べている。彼のその時点での新著「LA・ジャズ・ノワール―失われたジャズ史の真実」(河出書房新社刊)を巡って、である。この一月、ガンで亡くなったジャズ評論家・中山康樹、彼は耳も良く、目(のつけどころ)も良く、口も良く(動く)三拍子そろった男であったが、そのせいで時々暴投する癖があった。この本ではジャズの出生に関して、妙なことを口走ってヒンシュクを買っている。私も呆れたが、しかし中山の暴投は創造的要素もはらんでおり、単純に否定すれば良いといったものではなかった。読み方次第で毒にも薬にもなる本。というか薬になるように読まなきゃ意味はない。ここでは即ち「果たしてジャズ発祥の地がLAであってはならないのか」という風に視点をずらして「読む」ことを必要とされる。すると様々なことが見えてくる。どんなことが見えてくるのか、今ここでは書かない。そういう場ではない。
それはいずれ、とお茶を濁しておくが、とりあえず書いておかねばならないのは、ジャズ(という音楽)をジャズ(という風土)から解放しようとする中山康樹の刺激的ジャズ批評の根底にいつもマイルス・デイヴィスの存在があった、という点である。「存在」と書いて「音楽」と書かないのは、音楽だけじゃなく彼の「言葉」や「人脈」や「喧嘩のやり方」や、といったあれこれひっくるめての批評的スタンスだからだ。「オレの音楽をジャズと呼ぶな」と言ったと伝えられるマイルスにならって書くなら、中山は「オレの(ジャズ)批評をジャズと呼ぶな」と言うつもりでジャズに接していたと思う。ジャズの発生の同時多発性みたいな仮説にも、どこかでマイルスの存在を引きずっている気がする。

中山康樹著『マイルスを聴け! 増補改訂版』
マイルスに刺激されて生まれた著書の数々をここに羅列する気はないが、ひとまず、マイルスの音源をひたすら聴き漁った「マイルスを聴け!」だけを挙げておく。このタイトルの本だけでも何冊あるか、今ちょっと私じゃ分からない。最初のを書き直し、次には別バージョンを編集し、出版元を変え、また別バージョンをこさえ、と中山はこのタイトルで延々と違う「マイルスを聴け!」を出し続けた。今ここ、私の手元にあるのは双葉社刊の文庫「マイルスを聴け!バージョン6」である。同じ名前の違う本ってどういうこと、と事情を知らない方は不審であろうから、少々説明する。「また出たのか」と思われている読者の方へ、と題された「『バージョン6』のためのまえがき」から引いていこう。

1992年の初版刊行以来、「バージョン6」を迎えることになりました。2年に1回のペースですからオリンピックに勝ったことになる。(略)今回もこれまで同様、オフィシャル(公式音源のこと。上島注)、ブートレグ(いわゆる「海賊盤」のこと。非公式音源。上島注)問わず、細大漏らさず収録した。対象は2004年8月中旬の発売分までとした。

ジャズという音楽の録音音源は、同じ曲でもアドリブががらっと変わる、という性格上、スタジオ録音、ライブ(クラブ、コンサート、自宅、友人宅エトセトラ)録音と色々な音源を生み出し続ける傾向にある。厳密に考えればどんな録音音源でも「違う時に録れば違う音」だが、そういうことを言っているのではない。例えば、今回で言えば「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」という同じ一曲でも、色々な「異なる(パーソネル。アドリブ。テーマのアレンジ他)演奏」が残されている。先にちらっと「聴きくらべ」と記してあるが、美空ひばりが「柔」を紅白歌合戦で歌うのと新宿コマで歌うときとでは着るものもアレンジ(バックの演奏者)も違う、といったレベルではすまない違いがジャズでは起きる。そこで「聴き比べて何がどう違う」というのは大切だがそれ以前に、どういう音源が残されているかをひたすら記録する、というのが「マイルスを聴け!」の第一目的で、かつ、それぞれを中山の耳と目と口で批評する、というコンセプトである。
マイルスは91年9月に亡くなっており、92年に本を出すというのは分かるとして、それをバージョン・アップするとはどういうことか。単純に言うと、次々と新しい音源が発掘されるのでそれを新たに収録していく、という意味である。ジャズマンなら誰でもそういう本が可能かと考えるとそういうわけではない。マイルスならば可能である、と。そのへんもちらっと「まえがき」で書かれていた。原理的な部分での解説なので、ちょっと意味あいが変わるけれどもひとまず引いてみる。

なぜマイルスなのか。マイルスだけで人生、やっていけるからです。特にジャズという音楽に関しては、マイルスを聴いていればその他のジャズはほぼ全面的に必要ない。

という大変な話になってくるのである。
その中山的意味をざっと私が総括すると①マイルス・デイヴィスの音楽、というのがいわば一つのジャンルである。「藍は藍より出でて藍より青し」ということわざがあるけれどもジャズについて、こういう関係に立ち至ったのがマイルスであるということ。②そういう大きい問題を外しても、マイルスのバンドに在籍したメンバーを追いかけるだけである時期以降のジャズ状況が書けるということ。③つまり半世紀近いマイルスの音楽的キャリアがジャズ史のある部分とリンクするので、そこに着目するのがジャズ批評の一つの形たり得るということ。と、ここまでが原理的な部分。要するにマイルス以外には「マイルスを聴け!」は成立しないということだ(当たり前だが)。
で、回り道になったけれどもそういう存在であるマイルスの発掘音源が、存命中よりもむしろ彼の死後、つまり歴史的存在と化してから続々と世に現れることになった、そこに中山は対応しているのである。増補版という程度のことは最初から中山の腹づもりにはあったわけだが、バージョン・アップというコンセプトには、いわゆる増補版とは微妙に異なる感触がある。要するに新データを蒐集し、資料を直し続けるという発想構想の発現である。データの更新によって史的意味も変わる(こともある)し、従って逐一その意味を記述するのが中山のライフワークとなったのだ。今回の「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」聴き比べに当たっても中山の分析的批評を思う存分使わせてもらうつもりだ。
私は高校二年の秋からジャズを聴き始めて(前回述べたラヴィ・シャンカール体験から二ヶ月後のことだった)早四十年になるが、未だにちゃんとした聴き方が分からない。四十年聴いて分からないのだから、この先分かることはまずないだろうが、特に悲観することもない。そういう時には信頼するジャズ評論家数名に当たれば良いからだ。中山康樹もその一人だった。今となれば彼の暴投もボークもストライク同様に、あるいはそれ以上に懐かしい。ある時期以降の彼は「オレの批評をジャズと呼ぶな!」という宣言の次元をそもそも超えて、ジャズじゃない音楽の批評に積極的に取り組んでいたが、そちらの件を無視して、こと「マイルス音楽」に限って見ても、まだまだ私は彼の言葉を味わい尽くしてはいない。虎は死して皮を残し、マイルス死して音源残す。中山も死して、考察さるべき多くの言葉を残している。