映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦    第59回 残暑の松本と「ラプソディ」後編
スコア解釈をどう超越するかが今後の「ラプソディ」演奏の鍵
現物を聴いてもらわなくても(聴けばもっといいが)、ライナーを読むだけでこのバージョンが他のと違うのは分かるだろう。オリジナルに対してさらに編曲がなされているからだ。また即興演奏も増やされ、結果28分21秒の長尺版となった。クラシック演奏家だけでやる場合のおよそ倍の長さ。ここにさらに二曲が追加収録されることで、一種のトータル・コンセプト・アルバムになっていることにも注目しておきたい。
ライナーをかいつまんで読むと二曲目の「ヤメクロー」がファッツ・ウォーラーに初演され、それが「ラプソディ」へのジョンソンからの回答となっていたと総括される。ジョージア州ヤメクローの黒人居住区を、黒人フォーク音楽をベースに描いたものでチャールストンやその他1920年代のポピュラーなダンス音楽をふんだんに盛り込んでいることも紹介されている。その件はとりあえずここでは省かせていただいて、本コラムに取り上げねばならないのは三曲目の「アイ・ガット・リズム変奏曲」である。
この曲目も前回挙げているのを覚えていらっしゃるだろうか。歴史的事実は全くそうじゃないのだが、何となく作曲家自身が時代を二十年くらい先駆けて「モダン・ジャズ」をやっちゃったみたいに聴こえるのが面白い、と記しておいた。ここでのマーカス・ロバーツ・トリオとオーケストラとの共演がまさしくオリジナルの「変奏曲」へのトリオからのそうした視点での回答となっている。ここもライナーを少しだけ読んでから先に進みたい。引用する。

ガーシュインの「アイ・ガット・リズム変奏曲」は1930年の舞台「ガール・クレイジー」“Girl Crazy”からの歌「アイ・ガット・リズム」をベースにしている。この歌のAABA形式は何百もの、いやいや多分何千ものジャズソングの型板として使われてきた構造であり、オリジナル・スコアでは六つの異なる変奏がなされていたのだが、私はブルースとスイングの音色を最初から最後まで感じ取れるように、失礼をもかえりみず再編曲させていただいた。「ラプソディ」と「ヤメクロー」両方がソロピアノのカデンツァをフィーチャーしていたので、「アイ・ガット・リズム変奏曲」ではチャーリー・パーカーやセロニアス・モンク、エロール・ガーナー、それにジョン・コルトレーンのモダン・ジャズへの寄与を合体させながら、トリオ形式におけるピアノの役割の好見本を示すようにしたかったのだ。

こう読めば前回私が記したように、ロバーツがきわめて意識的に、この楽曲に対してビバップ以降のジャズのスタイルを取りこんでいると分かる。

「ヴァルトビューネ2003ガーシュイン・ナイト」
さて今夏のサイトウ・キネン・フェスティバル松本では大西順子トリオがオーケストラと共演しており、この形は「ヴァルトビューネ2003ガーシュイン・ナイト」でのロバーツ・トリオと小澤指揮ベルリン・フィル共演版を踏襲しているが、多分その先駆けとなったのはこのアルバム「ポートレイト・イン・ブルー」における「アイ・ガット・リズム変奏曲」である。つまり「アイ・ガット・リズム変奏曲」の演奏形式で「ラプソディ」をやる、というコンセプトなのだ。
ネットでこのコンサート評をちらっと眺めたところ、引退した大西順子を引っ張り出したことへの称賛が圧倒的なのはもちろんだが、その一方で「ラプソディ」オリジナル・スコアの古いジャズのスタイルとトリオによるモダン・ジャズは水と油じゃないのか、という疑問も見受けられた。
この疑問はそれ自体もっとだと思う。ただしその程度のことは皆わかってやっているのだということも書いておかねばなるまい。むしろ今夏の大西順子版の場合ではその「水と油」的な感じをさらに強調していたようにも聴こえた。何というか、これは誰に対しても悪口ではなく、もちろん大西順子がこう言ったというのでもないから、私の暴言として聞き流してもらえばそれで結構だが「今さらラプソディか!」と最先鋭トリオが大暴れ、という局面もあったような。そしてそれが大西順子版「ラプソディ」の今日的意義として良いのではないかと思うのだ。これはヴァルトビューネのロバーツ・トリオのあり方を更新するというか刷新するということでもある。「ポートレイト・イン・ブルー」のロバーツ的実験を足がかりにして明らかに「ラプソディ・イン・ブルー」はここまでの十年間に突然演奏形式上の進歩を遂げていて、それはジャズ自体の歴史(そのメインはしかもガーシュイン死後の歴史)を反映しているところに意義があるのだ。

面白いことにそうしたジャズ的「ラプソディ」演奏史に関しては日本人ジャズマン&ウーマンの貢献が目覚ましい。既に本連載第27回で山下洋輔によるこの楽曲解釈の幾つかを上げておいたが、ソロピアノ・カデンツァとオーケストラという、よりオリジナル版に近い演奏形式では近年、小曽根真も成果を上げている。どうやらCDにはなっていないようだが大植英次指揮による大阪フィルハーモニー管弦楽団との共演版が有名だ。ネットで色々聴けたりするのでチャレンジしてみてください。そうした色々な版を聴きながら私が思うのは、素朴なクラシック音楽ファンからは「ゲテ物」と蔑まれながらもオリジナルの新たな再編曲にチャレンジした最初のロバーツ版の試みへの称賛の念なのである。誰か今一度、ロバーツ版に依拠した「ラプソディ」をやる音楽家が現れてくれてもいいのではないだろうか。
今回はジャズ的なアプローチでの「ラプソディ・イン・ブルー」解釈にスポットを当ててきた。そういう関心からは外れてしまうけれどもポップスの元祖としてのガーシュイン・ミュージックへの注目という視点からはブライアン・ウィルソンの「リイマジンズ・ガーシュイン」“Reimagines Gershwin”(DIZNEY)とかラリー・アドラーとジョージ・マーティンの「ザ・グローリー・オブ・ガーシュウィン」“The Glory of Gershwin Featuring Larry Adler”(UNIVERSAL MUSIC)における「ラプソディ」も聴き逃せない。というか実は聴き逃していたが前者は桑野仁さんに聴かせていただいた。感謝します。