映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦    第59回 残暑の松本と「ラプソディ」後編
マーカス・ロバーツ版「ラプソディ」ライナーノーツを読む
さて前回の続きである。別にNHKの番組宣伝が本連載の意図では全くないのだがたまたまこういうつながりになってしまった。大西順子の演奏する姿をテレビで見たのが前回記述のきっかけだった。

マーカス・ロバーツ「ポートレイト・イン・ブルー」
小澤征爾が「ラプソディ・イン・ブルー」“Rhapsody in Blue”を、生粋のジャズ・ピアニストをフィーチャーして指揮するのは今夏のサイトウキネンフェスにおける大西トリオ(ベース、レジナルド・ヴィール。ドラムス、エリック・マクファーソン)が初めてではない。マーカス・ロバーツのトリオとベルリン・フィル・ハーモニーによるバージョンが既にありDVD化されている(後述)。そしてロバーツの方に注目しても、この名曲を演奏するのは小澤との共演盤がやはり二度目となる。一度目は1995年のこと。アルバム「ポートレイト・イン・ブルー」“Portraits in Blue”(SONY)としてリリースされている。名義の筆頭はロバーツで、演奏者は他にセント・ルークス(聖ルカ)・オーケストラとリンカーン・センター・ジャズ・オーケストラからの選抜メンバーである。前者がクラシック、後者がジャズ演奏家の集団で指揮者はロバート・セイディン。
この演奏そしてこのアルバム自体、歴史的名盤と呼ぶにふさわしいものなのだがネットをちらっと眺めたところ匿名のブログで「ゲテ物」呼ばわりされているのを発見し、愕然。そりゃないよ、となったわけだが文章を読んでみると要するに作曲者が残したスコアに忠実かどうかがこの人物唯一の評価基準らしい。そんな程度の人物に「ラプソディ・イン・ブルー」を論じられても無意味なのだが。まあブログにだって色々あるからいちいち低レベルの論評に目くじらを立てても仕方がない。この人物にしてもこの曲を論ずる資格がないだけで他の部分はまともなのかも知れないし。特に「ラプソディ・イン・ブルー」に関しては、ガーシュインによるスコアから意図的に離れるその方法にこそ演奏の現代的意味があるわけで、そこを聴かずに、というかそこを逆に聴いてしまったことで「ゲテ物」とこの人物は断定していることになる。「スコア離れ」とはこの場合、よりジャズ寄りに、という意味だ。
すでにこの曲に関して、ジャズという音楽の現在的なあり方に則して判定すれば「ジャズではない」と私は書いており、その理由もちゃんとそこで述べている。しかしそれは「シンフォニック・ジャズ」と称せられたオリジナル楽曲「ラプソディ・イン・ブルー」が非ジャズなのであって、この95年のマーカス・ロバーツ盤は少々事情が違う。またこの盤が現れたことで、それ以降この曲の演奏のあり方が変わってしまった、ということもある。そういう変化の中に位置づけるのでなければ大西順子の演奏も無意味だ。そういう次第で今回は画期となったマーカス・ロバーツ盤を聴いてみよう、と言っても本コラムはDJ番組じゃない。幸いにもこの盤にはライナーノーツとしてロバーツ自身による詳細な楽曲分析解説がついているので、それをじっくりと読んでいきたい、ということになる。では引用。

私(というのはもちろん私じゃなくマーカス・ロバーツである。上島注)がジョージ・ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」(1924)と「アイ・ガット・リズム変奏曲」“I Got Rhythm Variations”(1934)、それにジェームズ・P・ジョンソンの「ヤメクロー」“Yamekraw”(1927)を録音しようと決めたのは、アメリカ音楽におけるピアノの偉大な伝統のある部分を祝福するためである。これらの楽曲の初演以来、伝説的地位を持つ多くのピアニストがジャズという音楽の方向性を形作るのに寄与してきた。デューク・エリントン(50年にもわたって価値ある音楽を作曲し続けた方)、ラッキー・ロバーツ(ガーシュインとジョンソンの両方にラグタイムを教え込んだ偉大なピアニスト)、セロニアス・モンク、バド・パウエル、ファッツ・ウォーラー、エロール・ガーナー、ナット・キング・コール、ジェリー・ロール・モートン、等など。ジョージ・ガーシュインは様々なブロードウェイの舞台や映画音楽それにコンサート用作品のためにジャズから多くのことを引き出した、偉大なアメリカ音楽家であった。彼は閉店後の酒場にジェームズ・P・ジョンソンと繰り出し、ダンスを見、ブルースを聴いた。そうして彼はデューク・エリントンが「リズム&チューン(リズミカルな唄)」と呼ぶものこそがアメリカ的生活表現の中心にあるのを理解したのであった。ガーシュインは、エリントンと共にアメリカ音楽の全領域を再定義するのに力があった存在なのだ。

ここにアルバムのコンセプトが記されているのが分かるだろう。ついでに書くとガーシュインに併記してエリントンを上げているのがミソだ。エリントンは黒人、ガーシュインは白人で、やはりロバーツとしては同時代を代表する作曲家をそれぞれの人種から入れておきたかったのだ。では続き。

「ラプソディ・イン・ブルー」レコーディングの目標とは、おなじみの楽曲をガーシュインのオリジナル・スコアのエッセンスを壊すことなく新しくすることにある。トロンボーンのロナルド・ウェストレイは「既にガーシュインがやったことを今さら無理強いしたところで意味はない、我々がやれるのは彼の意図を増大させることだけなんだ」と言う。そう、デューク・エリントンが述べるように同世代(ジェネレーション)の音楽が真の問題じゃない、芸術家にとっての問題とは(前の世代の音楽を)継承し再生すること(リジェネレーション)なのだ。ガーシュインのオリジナル・スコアはヨーロッパ的な見取り図に拠ったジャズ観が基底にある。私のバージョンはクラシック音楽の環境の内部にジャズの感受性を反映させたものにしたかった。指揮者ボブ・セイディンは、気さくな態度と、ヨーロッパとアメリカどちらにも堪能な音楽知識によって、ジャズとクラシックその両方のミュージシャン達をリラックスさせ、互いに信頼させるのに成功した。

問題はジェネレーションじゃなくリジェネレーションなのだ、という言葉が重要。単なる指揮者セイディンやピアニスト、ロバーツによるスコア解釈ではなく、それを超えるのが次の世代の役割だと述べている。そのために必要なのがヨーロッパ的音楽の伝統をアメリカ的に読みかえることだ、とするロバーツの立場も重要。この点は後述する。

「ラプソディ・イン・ブルー」が書かれたのは、ルイ・アームストロングが人々にスイングの仕方を教える以前だった、このことを思い出すのは重要だ。ブルースを演奏しスイングするのがいかなるジャズをベースにした音楽の再生にあっても基礎たるべきこととなったのはアームストロングの影響故である。このことが楽曲を様々な音楽スタイルの範疇――メロディ、ハーモニー、テクスチャー(質感)、形式、そしてリズム――に変形させるのを可能にする。リズムとは、ガーシュイン自身がそう述べているのだが音楽の文化的アイデンティティの精髄なのである。リズムをよりアメリカ的にするために、私はベースとドラムスを今回のレコーディング全体の基盤に置いた。低音の吹奏楽器、バンジョー、そして二番ピアノがオーケストラのノリ(グルーヴ)能力をさらに確固たるものにするのを後押しした。私はミュージシャン皆にありったけの魂を込めて、そして心からの感情とぐいぐいとくるリズムで演奏することを要求した。ただしそれによって譜面に書かれた音楽の持つ威厳を何としても損なうことのないように、と。

ここからは具体的な楽曲の読み直しに突入する。

「ラプソディ・イン・ブルー」、これを最初に編曲したのはフェーディ・グローフェだが、音量の大きいクラリネット・グリッサンドから始まる。20世紀アメリカ音楽におけるジャズのインパクトを提示するために、私は今回のバージョンを即興演奏(インプロヴァイズト・ステートメント)の連続で開始することにした。ジェイソン・マルサリスも記しているように「この曲は即興演奏に向いている」からだ。楽曲の始まりはバンジョーのジェイムズ・チリロによる実質第二テーマからである。彼の即興の意図は後に来るC(ハ)長調のジャズの部分とのテーマ的な関連をここで印象付けることにある。ソロは、クラリネットのテッド・ナッシュとトランペットのマーカス・プリンタップによる「ラプソディ」第一テーマのソウルフルな即興での導入部へと続く。

ガーシュインのオリジナル版「ラプソディ」は冒頭のクラリネット・ソロ・グリッサンドが何と言っても欠かせないが、このロバーツ版はその前にバンジョーのソロを置いた。この編曲の工夫が即ち「アメリカ音楽的な読み変え」の典型である。では続きを。

ピアノの役割はカデンツァ(クラシック音楽では即興的に演奏される終結部分をこう呼ぶ。上島注)のソロイストたることとリズム・セクションの要たること、この両方だ。私はアメリカのジャズ・ピアノ全歴史との現代的な対話を行いたかった。例えば人は最初の大々的なカデンツァの終結部にエロール・ガーナーとセロニアス・モンクの影響を聴きとるであろう。そのすぐ後にオーケストラはA(イ)長調による「ラプソディ」最初のメインテーマで入るわけだが、それはシャッフル・リズムでのニューオリンズ的なノリが添えられていて、ベースのローランド・ゲランとドラマーのジェイソン・マルサリスによって締めくくられる。(シャッフルはワルツの三拍子に対してマーチの二拍子を演奏することで、ズレたノリの感覚を作り出すもの。これはルイ・アームストロングによって最初に導入されたサウンドで、世界中がこのスイング感覚に夢中になった。)このニューオリンズ風のノリは音楽からお祭りのような、謝肉祭のような雰囲気を作り出すのに大いに貢献したのだった。かくして私達は、ブルース旋律の上にハ長調の「ラプソディ」第二テーマを重ねて奏することにより、個人及び集団での即興演奏芸術を皆さまにお聞かせすることにした。メインテーマへの共通理念もノリも全く失うことなく、この集団即興演奏はミステリアス(神秘的)かつ不協和な効果を作り出す。アルバート・アインシュタインは1930年にこう書いていたではないか、「私達が経験出来る最も美しいものこそミステリアス(神秘体験)なのである。全て真実の芸術と科学とはそれで成り立っているのだから」と。私達はジャズの基本である「コール&レスポンス、ブルース、スイング、リフ(単純な旋律の反復のこと。上島注)、ニューオリンズジャズの対位法」を用いて、この楽曲を新しい芸術声明へと変換させたのだ。ト長調による二度目のピアノ・カデンツァ、それは第二テーマに基づくが、私は両手の間でリズムを対比させてたっぷり演奏した。その後、アルトサックスのウェス・アンダーソンは「ラプソディ」最初のテーマの官能的な側面をうまく引き出す。次のピアノ・カデンツァはセント・ルークス・オーケストラをフィーチャーした有名なゆったりしたホ長調のテーマを準備するものだ。「今回のレコーディングのためにジャズとクラシックの世界が一緒になったのは記念碑的な事柄だ。全てのクラシック音楽家が私達に敬意を払い、私達も彼らを敬う」とトランペッターのマーカス・プリンタップは言う。ホ長調最後のピアノ・カデンツァでは、子どもの頃に教会で演奏していた経験とジェリー・ロール・モートンのニューオリンズ・リズムとを音楽的引き出しにしている。カデンツァの後、トロンボーンとトランペットがホ長調のテーマを注意深く奏で、最後のピアノ即興が曲の最後まで続くノリを準備する。

ライナーノーツはまだまだ続くが、ひとまず「ラプソディ」の部分はこれにて終了。