映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第33回 アンドレ・プレヴィンのジャズ体験   その8 西海岸派ジャズマンとしての勲章
ケルーアックとビバップの夜明け
さて、ここに名前が出てきたジャック・ケルーアックに関してはアメリカ文学史上の最も有名な作家の一人ということで多言を要しない。とは言うものの何も書かないで進めるわけにもいかないだろうから少しだけ。
上記にあるように60年代アメリカのカウンター・カルチャー・ムーヴメントを準備した人物の一人でありビート・ジェネレーション(「ビート世代」とも)の最重要作家。1957年に出版され、彼自身のみならずビートを代表する著作となった「路上」“On the Road”で知られる。1951年4月に三週間で書き上げられたものだそうだ。サル・パラダイスとディーン・モリアティー、この二人の、アメリカを車で放浪する若者を中心にした青春小説はケルーアックと友人ニック・キャサディの実体験にインスパイアされており自伝的性質も色濃い。ケルーアックは車を運転しなかったとのことで、従ってキャサディがモリアティーに相当するらしいです、このあたりの記述は実はウィキペディアwikipediaをカンペとしている。詳しいことはそちらを直に当たっていただきたい。ビート世代の語源、語義そのものはケルーアックの更に先行する作家によるらしいが、そちらの場合否定的ニュアンスが濃く、あえて肯定的な意味を意識的に付与したのがケルーアック、とするのが文学史的には正解とのこと。確かに「ビート」世代と言う時に、「打ちひしがれた」とするか「脈動する」とするかで全然違う意味合いになりそうだ。
そして「ビート」という言葉から想像されるもう一つの意味が言うまでもなく「4ビート」を基本リズムにしたモダン・ジャズであり、実際、ビート世代の語義をそう誤解している向きも多いのではないだろうか(実は私がそう)。まあ、わざわざ「誤解」とすることもないか。そういうニュアンスは明らかにケルーアック以後の作家達に継承されていくことにはなったのだから。それでもう一つ面白いのは、既述のようにケルーアックの文化史的意義は「60年代を準備した」ところにある。この「準備」というのが実にビミョーなのだ。「路上」はヒッピーの聖典にはなったが、決してケルーアック自身はヒッピーではない。「ヒッピー」という言葉も今の若い人にはもはやピンとこないかも知れないが、ケルーアックは――これも先にちらっと記してしまったが――「ヒップ」hipであって「ヒッピー」hippieじゃない、という分かれ目のヒトになる。「少しだけ」と書いた割にはいつまでも語っているな。
大ざっぱに述べれば五十年代の前衛精神がヒップで、六十年代のその形骸とまでは言わないが大衆化路線がまあヒッピーだと。こういう風に理解してもらいたい。ヒップの対義語がスクエアsquareで、四角四面の、という本来の語意から類推されるように「体制側の」とか「体制を擁護する」とか「生真面目な」とか、あるいはメジャーな、つまり「多数派の」とかそういう感じ。だからヒップというのはその反対だと思ってもらいたい。「反体制」で「いい加減」で「マイナー」でなければ取り合えずヒップとは認められない。ケルーアックの小説がアメリカにおけるように日本でも受け入れられたとはちょっと思えないのだが、名前だけは浸透している。だから、それはアメリカ文学史上の人として奉られているという感じがする。この辺がバロウズとかと決定的に違ってしまっていて、こういう原稿でも説明が難しい点だ。『路上』出版から既に半世紀が経過してしまった。

と長い前置きで、ここからケルーアックのジャズ史的意義に入ろうと思うのだが、そこで語られることになるのは、これいかに、西海岸は1950年代コンテンポラリー盤のプレヴィンでもマンでもマリガンでもなく、それを更に遥か遡る1941年のニューヨークのさるライヴであり、いわゆる歴史的録音現場に皆さまをお連れしなければならない。 以下は平岡正明の「チャーリー・パーカーの芸術」(毎日新聞社刊)からの推論を要約したものである。ニューヨークでビバップ・ジャズが興ろうとしていた41年、その気配を偶然に捉えていた録音が「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」(「ミントンハウス1941」の名前でも発売。同じもの)である。この盤のことは本連載第22回に紹介してある。今でも原題がわからない、というネタもそこで述べてあるからここにも英語タイトルは書かないでおく。このアルバム中に「ケルーアック」“Kerouac”という楽曲が含まれているのだが、これは作家ケルーアック(平岡は「ケラワック」と記名しているが本稿ではこれに統一)のことではないのか、と平岡は述べている。以下抜粋しながら引用。

ところで「ケルーアック」という曲だ。この曲はビート作家ジャック・ケルーアックのデビュー以前の姿の記念だろう。モンクやクリスチャンやガレスピーと同世代者。1941年には十九歳だ。ブルース詩の発表も五十年代中頃であるから、1941年のニューヨーク・ハーレムで十九歳の彼の名がジャズの一曲を捧げられるほど高名だったのではない。ではどうして? ケルーアックは録音者ジェリー・ニューマンのコロンビア大学同期生だったのではなかろうか。青二才のケルーアックの名がどうして曲名になったかを推理してみると栴檀(せんだん)は双葉より芳しとやら彼には作家デビュー以前から言動にハーレムにやってくる白人には珍しくヒップなものがあって、同時代同世代者たるガレスピーやモンクが彼に親しみを以て、録音者の友人として顔を出しているフランス系のこの若い男の名を曲名に使ったということだろう。この推定が正しいとすれば、ビート派詩人や小説家は1950年代中期に大麻、放浪そしてグリニッチ・ヴィレッジの生活、禅、精神分析、そして白人的なクールジャズと一緒に登場したとされるが、ジャック・ケルーアックに関しては第二次大戦の始まる年にニューヨーク・ハーレムでバップの発生とともに放浪(オン・ザ・ロード)を開始したということになる。

これがまさしくケルーアックのジャズ史的意義である。要するに彼のビートとはバップ、ビバップなのだ。当該書第四項「ジャック・ケラワックのおくのほそみち」では更に進めて、ケルーアックの「ブルース詩集」を読みながらそのビバップと詩篇との接点を探る試みを平岡は行っているので、興味のある方はお読みください。タイトルから容易にわかると思うが、「路上」って言い換えれば「奥の細道」だ!という無責任な断言が素晴らしい。もちろん「無責任」というのは斜めからの賛辞であり、論証ぬきでそこから、むしろケルーアック以降のビート派詩人たちの日本文化や俳句への憧憬が予見されていることになるわけだ。