映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第33回 アンドレ・プレヴィンのジャズ体験   その8 西海岸派ジャズマンとしての勲章
プレヴィンがジャズ映画史に果たした役割
『地下街の住人』という企画に際し、アンドレ・プレヴィン以上に相応しい人材は思いつかない。プレヴィンはMGMで十六歳から、最初は音楽部の何でも屋として出発し、やがて自身で作曲するようになった。二十一歳で初のアカデミー賞ノミネート、フレッド・アステア主演ミュージカル『土曜は貴方と』“Three Little Words”(50)によってであった。不運なことに、彼がこの絶好のキャリアアップたるオスカー・ノミネートの事態を知ったのは米陸軍で穴掘りをしている最中のこと、実は、彼は徴兵召集を免れるため州兵(普段は予備役で戦時のみ動員、という制度の軍役。上島注)に志願したのだが彼の部隊はあいにく戦時動員されてしまい現役服務の身となったのだ。もっともその軍役はいわば塞翁が馬、ついていないかと思われたが彼に極上の結果をもたらした。六か月後のこと、サンフランシスコの第六軍楽隊配備を任ぜられたプレヴィンは、そこで、当時サンフランシスコ響の音楽監督だった指揮者ピエール・モントゥに付き、指揮法を学ぶことが出来たのだから。そしてこうした音楽教育が彼には更なる飛躍となった。回想録「短調の和音でなく」“No Minor Chords”に彼はこう記している。

ジャズは五十年代の大学生達にとても人気があって、サンフランシスコにも有名なクラブがいくつか所在した。ことにブラックホークとファックスが商売繁盛、私を、当時謎に満ちた新世界、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、MJQ、バド・パウエルの演奏するジャズへと導くには、一杯のビールで十分であった。彼らの音楽はまず私を怯えさせ、その斬新で注目すべきサウンドを理解し始めるまで、私はピアノを演奏出来なかった。何と言っても1952年、私のジャズに関する視点は決定的に変化した、そしてこれらのクラブの舞台に居並ぶ新しい種族のジャズ演奏家達の中に私も飛び入り参加して腕を磨くようになっていた。

除隊に続きプレヴィンはMGM復帰、同時にニューファックスのようなサンフランシスコのジャズクラブで演奏するようになり、1954年、そこで彼のトリオはコメディアン、レニー・ブルースと同じプログラムの舞台に立っている。プレヴィンの多面的な才能は撮影所の映画音楽の仕事にも驚くべき多様性をもたらした。鋭い現代的なテイストの音楽を劇的な場面のために書く一方で、MGMの最も偉大なミュージカル映画の幾つかに楽々と軽いジャズ音楽をつけてみせたりした。重要な主題部分の音楽ではない、雰囲気環境描写の音楽(ソース・ミュージック)とか、撮影の仕上がりチェック上映につく音楽とかにである。
ジャズはケルーアックの小説の重要な脇役、補助的な役割を果たした。そもそもビート・カルチャーにおいてそうであったように。実際、ケルーアックの言う「自然発生的散文」、或いは意識の流れ文体とは、ジャズの即興演奏に文学的に張り合っているわけだ。従って、『地下街の住人』を映画化するにあたってジャズを音楽の基本に据えるのは当然の帰結だった。小説に登場するサンフランシスコのジャズクラブにまさにうってつけの演奏者であるばかりでなく、MGMのスタッフでもあったプレヴィンは、だからたとえ、彼がかつて『恋の手ほどき』の音楽監督としてパリで数か月をアーサー・フリードと共に過ごしたということがなかったにしても、映画音楽担当として納得される選択であったろう。
プレヴィンなら偉大なるウェスト・コースト派のジャズメンのオールスター路線を招集するのが可能で、そこには原作小説にも言及されているサックス奏者ジェリー・マリガンも含まれていたのである。ジャズメン達数名、プレヴィンも含んで、様々なナイトクラブ場面では画面に登場している。マリガンに到ってはビート族の伝道者ジョシュア・ホスキンスとして小さな役柄まで演じているのだ。『地下街の住人』の音楽は、物語上実際に鳴っている優れたジャズ演奏によってのみ特筆すべきなのではない。それはまたこれらジャズ演奏家達と彼らの鋭い音楽スタイルとを、MGMスタジオ・オーケストラの凝ったハリウッド・サウンドと時折ほとばしる現代的オーケストラ書法とに、継ぎ目がわからないよう融合するプレヴィンの手腕にもあったのだ。
ほとんどの点で、完成した映画は(アメリカに生まれた)新たなボヘミアンのライフスタイルのカリカチュアを演ずるに留まったものの、その作曲家はケルーアックの原作のヒップな雰囲気とハリウッド映画の美学とのギャップに橋を架けることが出来たのである。