海外版DVDを見てみた 第4回『シャーリー・クラークを見てみた』 Text by 吉田広明
『ジェイソンの肖像』DVD

『ジェイソンの肖像』のジェイソン
『ジェイソンの肖像』(67)
クラークの第三作目の長編であり、現在DVDで見ることができる唯一のクラーク映画。撮り始めることをジェイソンに告げる監督の声から始まり、始めはピントが合っていない画面、そこから次第にジェイソンの顔に焦点が合ってくる。途中も画面が黒くなり、音声だけが持続しているのだが、これはフィルムを入れ替えているので、そのような黒身が何度も現れて、これが撮影されたもの、「映画」であることがあからさまに示される。映画は全編、黒人で、ゲイであるハスラー、ジェイソンが、酒を飲みながら、時にマリファナを吸いながら独白するのを延々と撮り続けただけのものだ。権威的な父を嫌い、家を出て白人の家で下男として働き、ナイトクラブで演じたり(女優メイ・ウェストの真似をしたり、歌って見せたりする)、売春したりして何とか生きてきた。ステージ・パフォーマーになるのが夢で、バンドを作るために人をだまして金を借りたが使ってしまった、といった自伝的挿話の数々を披歴する。スラングが多いし、甲高い声でしょっちゅう高笑いするし、台詞が聞きとりにくい上、ほとんど同じような画面が延々続くので、正直な所見続けているのが苦痛になってくる映画であることは否定しない。体裁はインタビューだが、有名人でもなければ、非常に変わった経歴の持ち主、というわけでもなく、確かにマイノリティであるにせよ、映画を見る限り、マイノリティの地位向上に役立つどころか、むしろ逆効果ではないかとすら思う。

この映画は、アメリカ版のシネマ・ヴェリテと一先ずは言える。シネマ・ヴェリテは、ジャン・ルーシュとエドガール・モランが、パリの人々にいきなりマイクを突き付けて質問し、その動揺などまで含めてフィルムに収めた『ある夏の記録』(60)を嚆矢として、映画と被写体の直接的な関係を実現しようとしたものだが、実際『ジェイソンの肖像』においても、クラークらが画面の外からジェイソンに話しかけ、酒を飲ませ、と相手の反応を直接引き出そうとしている。実際、そうして酒に酔い、ドラッグの効果が次第に現れたジェイソンは、立っていられなくなり、寝転がり、そこにいない、恋焦がれる男の名前を呼びながら泣き崩れるのだが、その生々しい身体や表情を、映画は残酷なまでにしつこく捉え続ける。言わばジェイソンを実験台にしているような居心地の悪さを見ているものは感じないではいられないのである。

確かにこの映画だけ見ていると、映画によって直接的に引き起こされた被写体の反応が画面に定着された典型的なシネマ・ヴェリテに見えなくもないのだが、『ザ・コネクション』で既にそうだったように、自発性や即時性、直接性といったものをクラークはそうまともには信じてはいないのであって、この映画の直接性、自発性をあえて撹乱するような作品をクラークは撮ることになる。脚本家サム・シェパード(『パリ、テキサス』の人)と俳優ジョゼフ・シャイキンとのコラボレーション二作『残酷 / 愛』Savage / Love(81)と『おしゃべり』Tongues(81-82)である。共に舞台上に男が一人いて、彼が延々としゃべり続けるのをカメラが収めるという点で『ジェイソンの肖像』によく似ている。とりわけ『残酷 / 愛』では、ここにいない誰かに向かって男が語りかけ、次第に錯乱してゆく。無論これらはあくまでも台詞が書かれた演劇作品であって、その場で語られる『ジェイソンの肖像』とは違うのだが、『ジェイソンの肖像』とこれらを並べてみた時に、これらの作品が、『ジェイソンの肖像』を真似、それを換骨奪胎しようとしているかに見えてくるのも事実である(というか、そう見た方が面白い)。男の独白という点で『ジェイソンの肖像』と同じような形式を持つこの二短編では、しかし様々な手法でその直接性が阻害されるのである。『残酷 / 愛』では、舞台上に二人のミュージシャンがいて、即興で楽器を演奏し続けるし、『おしゃべり』では、俳優の背後にいる誰か(サム・シェパード自身らしい)が、手だけ出して、これも楽器を演奏する様を画面に見せている。男の語りと即応していなくはないので、劇伴音楽ではあるのだが、本来裏に回っているべき存在をわざわざ際立たせることで、芝居の生々しさは侵害されている。また、これはヴィデオ作品なのだが、画像が加工され、どもったようになったり、とりわけ『おしゃべり』では、顔が波上に歪んだり、リズムに合わせてサイズの違うクロース・アップが次々現れたり、と、普通の画面がむしろほとんどないほどである。クラークは70年代始めからVideo Space Troupeというグループを作り、ライブとヴィデオのパフォーマンスをしてきたと言い、その成果がここに現れているわけである。この二つの短編も、上記UBU短編集に入っている。