海外版DVDを見てみた 第18回 ベイジル・ディアデンを見てみた Text by 吉田広明
仮構された共同体とその外~ディアデンの位置
ディアデンがイーリングでしたことは、先ずはイギリスの共同体イメージの確立であった。何らかの危機に対し、一丸となって立ち向かう(もっぱら公共の)小集団。それは戦時下におけるイギリスのナショナル・イメージを打ち立てることになったし、かつ、イーリングという小さな映画スタジオのイメージにも重なり、イーリングをイギリスのナショナル・イメージと重ね合わせることになった。しかしこうした共同体イメージは、自発的に出現したわけではない。何らかの外からやってくる危機がそれを触発している。外があっての、内、なのだ。そのことに最も自覚的だったのがディアデンだということなのだろう。実際、ディアデンが取り上げてゆくことになるのは、共同体を脅かす「外」なのだ。「外」といっても、戦時中は確かに全くの外=敵=ナチスであったが、以後ディアデンが取り上げるのは、共同体の「内なる外」である。下層階級の若者、黒人、ホモセクシャル、など社会から疎外されている者たち。そうした「外」に脅かされることで、共同体は結束を強める。しかし、その「外」は必ずしも排除されてしかるべきではない。確かに、『兇弾』、『暴力のメロディー』の若者は遂に捕縛され、隔離されるのみだし、『サファイア』の黒人女性は殺されてしまう。しかし、共同体は「外」を一方的に排除するのではなく、むしろ「外」と交渉し、その存在を寛容に認める方向に、自らをこそ変えていかねばならないのではないか。そうした方向性は、「外」にこそ位置する(あるいは、共同体の中心にいつつ、「外」の徴を帯びた)人物を主人公とした、『犠牲者』で打ち出されている。ディアデンの映画は、イギリスのナショナル・イメージが、戦時下から戦後へと変化するに応じて変わりつつあったのだ。

50年代末から現れたニュー・ウェイヴは、これまで映画の主人公としては取り上げられることのなかった(つまりは「外」の)、下層階級、地方、若者を、それが抱える問題ごと描こうとする。しかしそれは、既にディアデンが取り組んでいたことではなかったか。黒人やホモセクシャルなどのタブーを取り上げていた点では、社会的関心の広さにおいてニュー・ウェイヴを超えてすらいるかもしれない。ただ、ディアデンは、それをスタジオ映画の枠組みで行った。ニュー・ウェイヴの批判は、形骸化したスタジオ・システムそのものにも向けられていた。そのことと通じることではあるが、ディアデンの表現自体、際立った特徴を持たない、微温的なものであったことも問題ではあった(ただし、スタジオの映画が必ずしも個性を抑制するわけではないけれど)。批判をはねのけるに十分な個性を、映画が持っていなかったのだ。

62年の映画批評誌でディアデンは、「英国映画本流の悪しき部分すべての典型として」「容赦ない、しかも理路整然とした攻撃にさらされた」(チャールズ・バー)という。確かにディアデンはイギリス映画の本流を作ったわけであり、ニュー・ウェイヴにとっては真っ先に標的とすべき敵ではあったろう。しかし、ニュー・ウェイヴは、その敵の中において既に準備されていた。歴史における断絶の陰には連続性がある(そしてその逆もまた)。その複雑なありようを、ディアデンの作品は改めて考えさせてくれる。

クライテリオンのBoxセット
ここに取り上げた各作品は、イギリス版(リージョン2、Pal版、字幕なし)で出ているが、アメリカのクライテリオンから、『サファイア』、『紳士同盟』、『犠牲者』、『オール・ナイト・ロング』の四作が『ベイジル・ディアデンのロンドン・アンダーグラウンド』としてBox化されている(リージョン1、字幕付き)。