海外版DVDを見てみた 第17回 ロバート・ヘイマーを見てみた Text by 吉田広明
ロバート・ヘイマーとは~イーリングに入るまで
ロバート・ヘイマーは1911年、ウェールズの、広大な農場を代々有する裕福な農家に生まれている。寄宿制のロッサル・スクールに進むが、その校長はヘイマーについてこう記しているという。「見かけは皮肉屋に見えるが、魅力的で興味深い性格を有する。欠点は気が短いこと、利点はすぐにユーモアを回復すること」(チャールズ・ドレイザン「ロバート・ヘイマー」、ロンドン・マガジン、1995年6-7月)。アイロニーと怒り、そしてユーモア。以後彼が撮ることになる映画をどことなく思わせる。ケンブリッジに入り経済学を学ぶが、当初成績優秀で奨学金をもらう程だったにもかかわらず、学内で起こした男色事件で停学を命じられる。ちなみにイギリスでは1967年までホモセクシャルは犯罪であった。ちなみに、ホモセクシャルであることをネタに大学教授が脅迫されるという犯罪映画『犠牲者』Victim(61)をディアデンが撮っている。ヘイマーはイーリング時代に女優と結婚するが、その結婚生活はすぐに破綻、その後も女性との関係はいくつかあったがどれも長続きはしなかったようだ。ケンブリッジ、イーリングと経歴を同じくする脚本家ダイアナ・モーガンは、ヘイマーはホモセクシャルとして生きることができたらよほど幸せだったろうと述べている(上記ドレイザン)。ついでに言うとイーリングでヘイマーの師匠になるカヴァルカンティもホモセクシャルだった。同性愛者であるという事実が、必ずしも彼の作品に影響を与えていると思うべきではないが、彼の作品の中では性関係が晴朗さを欠いて薄暗いものであることは確かであり、また、ホモセクシャルであることで、エリートとして約束されていただろう将来を彼が捨てざるをえなかった(あるいはあえて捨てた)という事実は事実としてあり、彼が自身を日蔭者、社会を斜めに見るものとして自己規定するになにがしかの影響を及ぼしたことはまず間違いないと思う。

ケンブリッジを辞めたヘイマーは映画界に入るが(34年、23歳時か)、まずはゴーモン=ブリティッシュでカチンコ打ちから、である。映画にどれだけ興味があったか分からないが、階級社会であるイギリスで、ケンブリッジにいたエリート候補生が映画スタジオの下っ端になるというのが異例中の異例だったろう事は想像に難くない。一年後にアレクサンダー・コルダのロンドン・フィルムに入る。30年代前半というか、ナチスが政権を取った33年以降、ドイツ人がイギリスにも亡命しており、その中に製作者エリッヒ・ポマーもいた。ポマーは37年に俳優チャールズ・ロートンと共に製作会社メイフラワー・ピクチャーズを設立、そこにヘイマーを呼び、自身の監督作『怒りの器』Vessel of Wrath(未、38)、ヒッチコック監督『ジャマイカ・イン』(39)の編集を任せる。既にアメリカで演劇のキャリアを積んでいたロートンも、ハリウッドでの製作を模索していたポマーもアメリカに去ってしまい、メイフラワーは機能を停止、ヘイマーはイギリスのドキュメンタリー運動の拠点、GPO(イギリス郵政局)に入り、そこでアルベルト・カヴァルカンティに出会う。GPOでヘイマーがどんな仕事したかは詳らかでない。直ぐにカヴァルカンティと共にイーリングに移ることになる(40年)。

当時イーリング・スタジオの所長マイケル・バルコンは、国際的に売れる映画よりも国内向けの映画を作る方向へ方針転換を図っていた。戦時中でもあり、それは当然戦争プロパガンダ映画ということになるのだが、その中で、個人主義的で我関せず焉のイギリス人が、危機に直面して一致団結、チームワークを発揮するという枠組みの映画によって、ナショナル・アイデンティティ・イメージを確立したことがイーリングをイギリスを代表するスタジオに押し上げることとなるわけなのだが(この辺に関して詳しくはチャールズ・バー『英国コメディ映画の黄金時代 「マダムと泥棒」を生んだイーリング撮影所』清流出版を参照)、ともあれヘイマーはカヴァルカンティとともに、その過程に参加し、その中で映画監督として大成してゆくことになる。