海外版DVDを見てみた 第9回 カヴァルカンティの『私は逃亡者』を見てみた Text by 吉田広明
『私は逃亡者』イギリス版DVD
『私は逃亡者』
葬儀屋を表の顔として、裏で窃盗団を組織している男ナーシィ(グリフィス・ジョーンズ)が、新入りクレム(トレヴァー・ハワード)を仲間に入れる。クレムは元空軍兵士で、彼には「気品class」があるというのが、ナーシィが彼を仲間に加える理由である。しかしクレムは、ナーシィが麻薬を扱っているのに気付き、約束と違う、と文句を言う。これに警戒心を抱いたナーシィは、クレムを罠にかけ、彼を逮捕させる。その際警官が一人犠牲になり、クレムは警官殺しの濡れ衣を着せられるのだ。クレムは脱獄し、ナーシィの元情婦サリー(サリー・グレイ)の助けを借りながらナーシィと対決する。

夫を殺してくれるよう頼む女
ナーシィが、折角クレムを仲間に加えながら、すぐ排除しにかかったりする辺り、またナーシィの元情婦が彼を助けるその心理的理由がよく分からず(しかしこれには後述するような意味がないではない)、不自然な感じがしないでもないが、映画はそうした不自然さを忘れさせるに足る展開と演出を見せる。この映画で最も不自然なのは、脱獄したクレムがある家に侵入する場面だろう。そこでクレムは、通報されるどころか、その家の主婦に食事を与えられ、風呂に入れてもらい、上等な服まで提供される。しかし交換条件が一つ、あなたは人殺しなのだから、また例えあなたが自分でそう言うように無実だとしても、戦争で人を殺したことがあるはずだから、もう一人殺すくらいはなんでもないだろう、この銃で夫を殺してくれ、というのだ。途中この夫が、でかい酒瓶を抱えて現れ、クレムを見ても、おっと邪魔してすまんね、と恐縮しながら去ってゆくというショットが差し挟まれ、この夫婦の関係は一体どうなっているのか、と不審に思わざるをえないが、結局それはまったく不明なままなのだ。クレムがにべもなくその依頼を断って去った後、主婦は彼の指紋がついた拳銃で夫を撃ち殺し、こうしてクレムはもう一つの殺人事件の犯人に仕立て上げられる。この場面の展開はずいぶんぶっきらぼうなのだが、それがかえって不気味なリアリティをもって迫ってくる印象がある。この主婦の顔のインパクトも、この場面の印象に大きく寄与しているだろう。

暴行の際鏡の中で顔がゆがむナーシィ
全体に陰鬱なこの映画の中でひときわ暗い魅力を放っているのがナーシィである。彼は常に身だしなみの良いダンディで、しょっちゅう爪磨きで爪を磨いている。実はナーシィとはナーシサス(ナルシス)の略であるとその後判明するように、彼はナルシスティックな男なのだ。一方で彼の中には暴力的な衝動がある。自分の元の情婦サリーが刑務所のクレムに会いに行ったことを知ると、彼は彼女を激しく殴打する。サリーは劇場の踊り子をしているのだが、その楽屋、鏡に映る、怒りに満ちた彼の顔は、鏡の歪みのせいでひどく醜く変形されて見えるのだ。それが彼の内面的異常性の反映であることは言うまでもない。ナーシィはまた劣等感に駆られる男でもある。クレムを仲間に入れたのも先に書いたように、おそらくは階級故の「上品さ」があるからで、ナーシィは彼をその点で羨み、ねたんでいる。クレムを陥れるについても、自分のねたみの対象への嗜虐的な快楽が底にあることは間違いない。

暴力的な衝動を内に秘めたダンディであるナーシィは、しかしクレムとよく似ている。というかクレムもまた、ナーシィによく似ているのだ。ナーシィは「戦争が生んだクズ」と評される。戦争ゆえにニヒリスティックになってしまった悪党。しかしそれはクレムも同様だ。クレムは常にくわえタバコ、砕けた口調で皮肉を飛ばす人物として描かれる。クレムもまた、戦争でニヒリズムに侵された人物なのだ。ただし、ナーシィよりもユーモアを解する男ではあるのだが(逃げる途中散弾銃に肩を撃たれるのだが、サリーがその散弾をピンセットで抜き取る際、一個抜き取るごとに、「愛してる、愛してない」とつぶやく)。人間関係の対称性も、彼らの相同性を強調する。クレムが初めてナーシィに会った時、彼は女友達を連れているが、ナーシィは彼女に惹かれる。そしてクレムが初めて仕事に加わり、アジトである葬儀屋に帰ってくると、その女はナーシィの部屋から出てくる。クレムの女が、ナーシィの女になる。そしてナーシィの女だったサリーが、クレムの恋人となる。二人は女をそれぞれ交換するのだ。サリーの部屋で銃弾の傷の手当てをしてもらったクレムは、車で警官を轢いた真犯人である男を捜しに出るが、その際ナーシィが部屋に置き忘れたというコートを渡され、それを着る。クレムがナーシィの服を着るというこの細部が意味するところは、二人の相同性以外の何物でもないだろう。この映画において、ナーシィとクレムは分身として描かれているのである。『夢の中の恐怖』での腹話術師と人形の関係が思い起こされる。

ラストの屋根の上での場面
さて、映画は葬儀屋でクライマックスを迎える。棺桶の中や事務所に隠れ、待ち受ける一味。天窓に現れたクレムの武器はなんと空の牛乳ビンである。これをクレムはナーシィに投げつけ、昏倒させるのだ。手下との格闘の後、屋根に逃げたナーシィをクレムは追う。ナーシィは隣の建物に飛び移り、しかしバランスを崩して落下。瀕死のナーシィに、サリーとクレムは真実を言ってくれと嘆願するが、ナーシィは真相を告白しないままに死ぬ。ナーシィの顔はちょうど半分泥にまみれ、黒と白に塗り分けられて、対称性を際立たせており、分身の主題と考え合わせればこの顔の意匠は、ナーシィとクレムが同じ運命(死)になることを暗示しているかもしれない。クレムを追っていた刑事は、事情をよく調べれば無実は証明されるとして、明るい未来がほのめかされるとはいえ、それは必ずしも確かなものではない。この不分明な終わり方は、例えノワールであったとしても、アメリカならばありえないものだろう。