海外版DVDを見てみた 第8回『テレンス・デイヴィスを見てみた』 Text by 吉田広明
二作目『長い日が終わる』と自伝的ドキュメンタリー『時と街について』
『長い日が終わる』では、デイヴィスの幼年期が描かれる。はっきりデイヴィスである少年が主人公で、しかし既に父は亡くなっており、母子家庭、兄や姉がいる。少年は自分の家、教会、学校といった狭い世界にあり、しかし映画好きで、遠い世界に憧れを持ち始めている。主人公が窓から、あるいは家の前の柵につかまって、外を眺めているショットもよく現れる。しかし学校で苛められたり(トリロジーの『子供たち』と同じく三人組に)、教会では幻視した生身のキリストが彼を馬鹿にしたり、と、学校や教会も、彼に対してはいささか敵対的な空間であり、唯一映画だけが彼の心の慰めであるかにみえる。この映画では、確かに当時のポップ・ソングも流れるのだが、それ以上に映画の音楽(二〇世紀フォックスのファンファーレ、『風と共に去りぬ』のテーマ曲など)やセリフ(『偉大なるアンバーソン家』、『マダムと泥棒』など)が印象的で、こうした音楽や音声は、少年の日常的な、ただし人気のない空間を背景に流れており、音声と映像が明らかに齟齬をきたしている。無論これは日常のわびしさ、閉塞に対し、その外=少年の心のよりどころとしてのどこでもない場所、を開示するものだ。ただ、デイヴィス特有のゆっくりとしたトラヴェリングが、この三つの空間を横断的につなげてもおり(家の玄関先、映画館のように背後から円錐形の光が差す教会、教室を真上から捉えるトラヴェリング)、映画が、他の二つの空間と違った非現実的な理想の時空間というわけでもないかもしれない。ともあれ、実体を欠いた声(映画のサウンドトラックの他にも、授業で先生が語っていた腐食や浸食の説明の声)のほうが、現実の音響以上にリアルに響く。テレンス・デイヴィスにあっては、「今、ここ」以上に、想起される時空間の方が一層現実的なのである。

従って、まさに「今、ここ」のリヴァプールを扱ったドキュメンタリー『時と街について』は、自伝的フィクションのような映画的な時空間を生み出すことができない。路上で子供たちが牧歌的に遊んでいた時代の記録映像と、高層マンションばかりが立ち並び、しかし足元には落書きだらけの荒れ果てた廃墟が散在する今のリヴァプールの映像が並べられ、デイヴィス自身の声が、呪うように現状を糾弾する。デイヴィス特有の音響の使い方も影をひそめ、フィクション作品にあったような、複雑な映像と音響のアレンジメントによってこそ現出する、現実以上に現実的な無何有郷はなく、ただ単に現実的な場所があるだけだ。