ロンドンとリリアン・ギッシュ Text by 大塚真琴   第5回 リリアン・ギッシュⅡ
百合とバラ
ポール・パウエルがリリアンを監督した唯一の映画である『The Lily and the Rose』(百合とバラ)は、グリフィスがグランヴィル・ウォリックの名で脚本を書いた。グリフィスは映画製作そのものには関わっていない。1920年にこの映画が『The Tiger Girl』(タイガー・ガール)の題名で再公開された時、業界紙上でこれは自分が製作した映画とは思っていないので、すべての広告からグリフィスの名前は取り去るべきであると発表した。それでも、ストーリーはグリフィスらしく、素朴な妻に飽きた夫がミュージックホールの踊り子に夢中になるという設定は1913年の『The Mothering Heart』を思わせた。日本では再公開版が『青春』の題名で1921年に公開された。
この映画には、夫が夢中になる踊り子の役で、ドリー姉妹のロジーカが出演している。ロジーカにとって最初の映画出演だった。映画の中にはロジーカが踊る場面があり、それがこの映画の売りでもあった。リリアンの演技はこまかな感情を表現することに終始しており、独特の歩き方や手と指の使い方、表情の作り方などを見ると、彼女の演技の形ができあがりつつあることがわかる。この映画の伴奏音楽の選定、編曲は『國民の創生』で音楽を担当したジョゼフ・カール・ブレイルによってなされた。ブレイルはこの頃、ジョン・コンウェイの『The Penitentes』(悔悟者たち 15)やポール・パウエルの『The Wood Nymph』(森の精 16)(いずれもグリフィスが監修)でも音楽を担当している。

1916年の『ダフヌと海賊』はフィルムが失われている。リリアンはフランスの貴族の青年と恋に落ちる娘を演じた。ダフヌは売春宿に身を潜め、その後植民地へ向かう船に強制的に乗せられ、やがて海賊に捕われた青年を救うという物語である。リリアンは、それまでにない元気で魅惑的で奔放なキャラクターを作り出し、観客を驚かせたようだ。この映画は1920年の1月に日本でも上映された。キネマ旬報の批評には「ギッシュ嬢の演技は思い切って變わって居る。あの濕ほいの乏しい容貌が其演技をあんな取様に依っては露骨過ぎてわざとらしく思はれる様に見せたのか、又は其演技の巧妙が容貌を迄多少意地惡氣に見せる程神に入っているのか判斷に迷ふが、私にはどうしても圓熟した藝とは思へなかった」(1920年1月21日、第20号)という批評がある。キャバンは、一体リリアンからどのような演技を引き出したのだろうか。
少し変わった役柄で思い起こされるのは『暴風の後』(Sold for Marriage)のロシア娘の役であろう。リリアンは黒髪のかつらをつけて、頭にスカーフを巻き、ふくらんだ半袖のブラウスから長い腕を出して友達と話しをしている。その話しをしている様子が、そこら辺りにいるごく普通の子というふうでいい。彼女には以前変な男にからまれているところを救ってくれた青年という恋人がいるのである。しかし、親は勝手に許婚者を決めてしまったのでそれが嫌なのである。ここでのリリアンは本当に生き生きとしていて可愛らしい。許婚者を指差して「こんな男と結婚?」と叫んだり、男の腹を手元にあったビンで叩いたり、鵞鳥を追いかけたり、洗濯物を勢い良く叩いていたり、それまでにない新鮮な魅力を出している。もっとも、後にこの映画を観たリリアンは「やっていることを全くわかっていない」と、自分の演技を観て当惑していた。しかし、この映画は22歳のリリアンの恐らくは素に近い姿を見ることができるという意味でとても好感を与える映画である。リリアンの若さと強さと生意気さ、そういうものがはっきりと出ているのである。

アラン・ドワン
リリアンの次の映画「An Innocent Magdalene」(無垢なマグダレン)は、アラン・ドワンが監督した。ドワンはこの頃、ドロシーの『邪道』(Jordan is a Hard Road 15)と『珠玉の乙女』(Betty of Greystone 16)でも監督を務めている。ドロシーの『夜の紐育』(Night Life of New York 25)もドワンが監督である。ドワンは1911年から監督を始め、アメリカン・フィルム・カンパニのために250本の映画を監督した。それらは主に一巻物の西部劇だった。1913年にユニヴァーサル社に入り、1914年にフェイマス・プレイヤーズ社でメアリ・ピックフォードの映画を監督した。1916年からダグラス・フェアバンクスのシリーズ物を監督するようになった。ドワンは技術的な面で優れた才能を持ち合わせ、『イントレランス』でグリフィスにどのようにしてカメラを上下させ、巨大なセットをくまなくとらえるかといことをアドヴァイスしたことでも有名である。