ロンドンとリリアン・ギッシュ Text by 大塚真琴   第5回 リリアン・ギッシュⅡ
イノック・アーデン
グリフィスはバイオグラフ社を去った後、配給会社のミューチュアル・フィルム・コーポレーションのハリー・E・エイトクンと契約を結び、製作会社のマジェスティック・アンド・リライアンスで映画を作っていた。ハリー・E・エイトクンは1915年の7月にトライアングル社を創設した。この会社はグリフィスとマック・セネット、トーマス・H・インスの三人がそれぞれの映画を製作し、それを配給することを目的として創設された。グリフィスは『イントレランス』を監督する傍ら、トライアングル社のための作品も作らねばならなかったが、このわずか三年で解散した(その主な原因は『イントレランス』による莫大な借金だった)会社で作られた映画は殆どがグリフィスの弟子にあたる監督たちによるもので、グリフィスは監修に名前を出す程度だった。現在トライアングル社の名前はマック・セネットのキーストン・コメディとダグラス・フェアバンクスのシリーズ物について語るときに触れられることが多い。
リリアンの出演作品もグリフィス監修によるものだった。リリアンは『國民の創生』と『イントレランス』についてはよく言及しているが、この頃の他の作品については殆ど述べていない。リリアンの映画を監督した人の多くは、グリフィスほどに映画作りに熟達しているわけではなかった。それは演出に稚拙な印象を与えると同時に、当時のリリアンの若さや幼さが無防備に剥き出しになってしまうことでもあった。1915、16年に出演した11本の映画の内、6本をW・C・キャバンが監督し、その他にポール・パウエル、ジョン・C・オブライエン、アラン・ドワン、ロイド・イングラム、エドワード・モリシーによる監督作品が一本ずつあった。その中でまず目を引くのは、1915年のW・C・キャバン監督による『イノック・アーデン』であろう。

ウィリアム・クリスティ・キャバンは、1911年からグリフィスの元で仕事をしており、グリフィスが1913年にバイオグラフ社を去った時に、共にミューチュアル・フィルム・コーポレーションに移ってきた人だった。製作会社のリライアンス―マジェスティックでキャバンは監督としてその名を広めた。キャバンは1913年の『A Misunderstood Boy』(誤解された少年)など、いくつかのグリフィスの映画の脚本も書いている。撮影を担当したウィリアム・E・フィルデュウは、この他に『The Lost House』(失われた家 15)、『ダフヌと海賊』(Daphne and the Pirate 16)、『暴風の後』(Sold for Marriage 16)でもキャバンと組んでいる。
アルフレッド・ロード・テニスンによる長詩「イノック・アーデン」は、グリフィス自身が1908年に『After Many Years』(幾年過ぎし後)の題名で映画化し、1911年にも二巻物の映画として製作している。さらに非常に似通った題材のものでは1909年の『Lines of White on a Sullen Sea』(陰気な海の白い波の線)や、1910年の『The Unchanging Sea』(不変の海)が挙げられる。このキャバン監督の『イノック・アーデン』はリリアンのアニー・リー、アルフレッド・パジェットのイノック、ウォレス・リードのフィリップという配役で、フィリップの父親役でグリフィスが出演している。グリフィスが監督をしていたら、リリアンは映画史上最高のアニー・リーとなったであろうと思うが、キャバンの演出は、三人の子供時代の海辺の描写や風車を前にしての結婚式の場面などに力を入れていたものの、リリアンの老け役はどこか幼さが漂い、全体的に物足りない印象を受けた。『イノック・アーデン』は、1922年6月18日に『The Fatal Marriage』(不運な結婚)の題名に変えられて再配給された。この再公開版は若干の変更を加えられており、字幕も手直しされていた。当時の広告がリリアン・ギッシュとウォレス・リードの名前を大きく印刷し、キャバンよりもグリフィスの名前を前面に押し出していることから、この再公開は明らかに有名な監督と人気スターの名前にあやかって行われたものと考えられる。『イノック・アーデン』は日本では『清き心』の題名で1915年に公開され、再公開版は『死の結婚』の題名で1922年12月に公開されている。
リリアンは『The Lost House』(W・C・キャバン監督)では遺産を狙う叔父によって無理矢理精神病院に入れられてしまう娘を演じ、『Captain Macklin』(キャプテン・マクリン ジョン・B・オブライエン監督)では将軍の捕われの身となり、恋人に救われる娘を演じた。