コラム『日本映画の玉(ギョク)』Jフィルム・ノワール覚書⑬ 東映ノワール 『七つの弾丸』の革新性』    Text by 木全公彦
シナリオ版と映画版の差異
この世間を賑わせた事件を橋本忍は新聞で知り、犯人と事件に巻き込まれて凶弾に倒れた人の不条理さんに興味を持って、これを脚本にしたいと思い立つ。製作会社は東宝、プロデューサーの田中友幸が興味を示した。そのシナリオが「映画評論」1956年12月号に掲載されている。1956年といえば事件の翌年。東映の映画版に比べて、拳銃の入手方法など先に警官の制服を盗んでから拳銃を入手するとか、銀行を襲う前にサングラスとマスクを買う場面があるとか、銀行襲撃直前に入った喫茶店で背広の裏に隠し持った拳銃を落として、大きな音を立てたものの平気で拾い上げたこととか、映画版では削除されたディテールは実際の事件に則しているが、映画版とのもっとも大きな違いは導入部の構成にある。

映画版の導入部は、すでに紹介したように主人公が後日襲撃する銀行と交番を下見する場面である。ところが「映画評論」掲載版の導入部は、いきなりクライマックスの銀行襲撃とその逃走劇が描かれている。そして主人公・矢崎が埋立地の草むらで逮捕されるところにメインタイトルが出るという構成。続いて、失業した矢崎が交番で隙を見て巡査部長の制服を盗む場面、その制服に身を包んで別の交番で立番をしていた警官を外出させ、拳銃を盗んだあと、新聞の輪転機に合わせて浜松のOS映画劇場、名古屋の親和銀行襲撃のモンタージュの挿入があり、映画版の冒頭にある銀行の下見場面と続く。映画版で特徴的だった主人公・矢崎の内的モノローグを代行するようなナレーションも、すでにこの稿にある。この「映画評論」版では、冒頭に置かれた銀行襲撃と逃走劇はもう一度クライマックスで繰り返される。橋本と同じくナラタージュ好きのジョセフ・L・マンキウィッツの映画のように。

シナリオを添えられた橋本忍自身の言葉にこうある。
「どの作品も書いている時は一様に辛い。しかし、この七つの弾丸ほど、辛くて苦しいものはかつてなかった。/そして出来栄えは、正直に云って、過去の作品にはなかった長所がある代りに、また、過去の作品には見られなかった欠点も兼ね備えているように思う。だが、難しいことは、その欠点をなくしようと思えば、長所も一緒に吹き飛んでしまうことだ。/まァ、どこにも欠点のない、完全無欠なシナリオなんてあるはずもなし、また仮にあったとしたらきっと面白くねえんだと、今のところは一人で自分を慰めている次第(後略)」(「橋本忍『七つの弾丸』雑感」、「映画評論」1956年12月号所収)。

この「映画評論」版では、事件の場面に続き、巻き添えを食って死んだ人たちの残された家族の描写がある。銀行の出納係の母親は精神に異常をきたして養老院に入れられている(映画版では母はまだ実家にいる)、タクシー運転手の女房が万引で警察に捕まり、警察署で取り調べを受けている(映画版では万引をして捕まる場面のみ)について、橋本は練りが足らないと反省しているが、映画版は尺が短いためばっさりと落としてもっと簡素にしている。確かにそのほうがすっきりする。

ところで「映画評論」版で導入部とそれに続く場面に置かれた場面は、東映の映画版ではもっと後の場面になるのだが、これは完成した映画のほぼ3分の1にあたる。つまり映画版と「映画評論」版では、前半の3分の1がすっかり入れ替えられているのだ。これは橋本忍自身があちこちの雑誌で述べていることだが、橋本は脚本の全体を3分の1ずつに分けて書き進める「3分の1システム」と称するシナリオ執筆法をとっているという。

「いよいよシナリオの形を書くときであるが、これには私は現在“三分の一システム”という方法をとっている。まず三分の一まで進む。そうしたら一度ふりかえってみる。その上でさらに三分の一を眺めて進む。最初から三分の二まできたら、またここで一休みし、これまでのものをふりかえり、今度はラストまでを展望し、残りの三分の一を終える。つまり、一番最初に計算して構成を建てる時のことだが、いくら計算をやったとしても、出発点に立ってラストまで見通すということは、とても出来るものではなくどうしてもアイマイな点や分からないところ、それから計算の誤差なども生じてくる。従ってこの三分の一システムに依って、その欠点を早期に発見し、シナリオにまで持ちこまないやり方をとっている」(橋本忍「私の現在のシナリオ作法」~「キネマ旬報」1964年増刊シナリオ3人集所収)