コラム『日本映画の玉(ギョク)』Jフィルム・ノワール覚書⑬ 東映ノワール 『七つの弾丸』の革新性』    Text by 木全公彦
大阪・東海銀行短銃襲撃事件
ところで『七つの弾丸』は実際に起きた銀行襲撃事件をモデルにしている。1955年8月29日に起きた東海銀行短銃襲撃事件である。事件のあらましはほぼ映画で描かれたとおり。

昼過ぎの1時頃、大阪市東区北浜(現・中央区)の派出所に、真夏の昼下がりだというのに、白パナマ帽、上下白麻の背広を着込み、赤い蝶ネクタイ姿の若い男がタクシーを降り、「落し物です」と言って入ってきた。永田淳巡査(24)が落し物の包を開けようとしたところ、権は拳銃を取り出し、「あっちを向いて帯革を外せ!」と脅してきた。永田巡査は反射的に「何を言うか!」と叫んで抵抗するが、男が放った弾は永井巡査の左胸ポケットの警察手帳をぶち抜いて心臓に命中した。即死である。

男は派出所の西隣にある東海銀行大阪支店に、まだ銃口から煙の出ている拳銃を見せて「動くと撃つぞ」と叫びながら、ドアをあけて入ってきた。出納課長の机の左隣の小机に、日銀大阪支店からたった今受け取ってきたばかりの千円札の百万円の束が5つ入ったリュック型の現金袋が置かれていた。男は500万円が入った袋を奪うと、「最後の弾で俺が死ぬとしても、まだ10人は殺せるんだ」と叫んで銀行を出て行った。男は通行人に「どけ、どけ」と叫びながら拳銃を空に向けて発砲した。そこへ通りかかった三木昭造さん(28)運転の車を停めて、助手席に無理やり乗り込むと、三木さんに向かって「難波橋方面へ行け」と脅迫した。車は右折して天神橋筋六丁目の雑踏を縫い、大淀区本庄川崎町三、大阪染物工場前まで来た。三木さんは、機転を働かせてエンストを装って車を停めたが、これを見破った男は激怒し、三木さんを射殺した。

さらにスクーターを奪い、逃走し、これを乗り捨てると、北区中崎町、梅屋旅館に逃げ込んだ。男を警官隊と野次馬が取り囲む。再び表に出た男を曽根崎署の二出川忠生巡査が発砲したため、応戦し重傷を負わせた。負傷した二出川巡査は、女優の高千穂ひづるの従兄である。男は電車路の向こう側に停めてあった軽トラックの荷台に飛び乗り、逃走を続ける。大阪府警はただちに警察官の緊急配備と非常線を張った。パトカーが非常サイレンを鳴らして逃走する男を追って長柄大橋に集結する。男は東淀川区の柴島中学校前で軽トラックを飛び降りた。警官隊約600名があたりを完全に包囲する。その結果、柴島町の協和染サラシ工業所の倉庫に隠れていた血まみれの男を発見し、事件発生から1時間後に緊急逮捕した。

以上が事件のあらましである。舞台を大阪から東京に置き換えたほか、映画で今井俊二(=今井健二)が演じた銀行の出納係が実際は殺されないところ以外、映画はほとんど正確に事件をなぞっている。だが最も映画が実際の事件から大きく改変したところは、実際の事件の犯人は、権善五(26)という在日朝鮮人であったことだ。

権は、1929年に朝鮮慶尚南道で洪福順こと安東静子さんの二男として生まれた。5歳のとき、家族と共に神戸へ移住した。旧神戸一中夜間部で二年まで学んだ。成績は優秀だったという。空襲が激しくなり、権一家は兵庫区の山中に疎開したが、彼は灘区にある下宿で独り生活を始めた。中学を中退して航空兵に志願するが、肺結核のため不合格。やがて、終戦を迎えて、父親の仕送りで関西大学法学部に進学するが、一年で退学。その後、神戸でダンス教習所を共同経営していたが、半年も続かず、貿易会社を経て、神戸の新聞社に日本名「安藤昭次」という名で臨時雇いとして勤務する。半年後、正社員になる話があるが、戸籍謄本が必要だと聞き、朝鮮人だと分かるのを恐れて、病気を理由に退社する。

その頃、同じ下宿先に戦争未亡人とその娘が移り住んできた。未亡人の夫は元軍医で、娘も女医になることを夢見ていた。権と母娘は急速に親しくなった。やがて、未亡人は権に娘と結婚することを懇願した。美人で女医を目指す娘との結婚は願ってもない話だった。ところが、権の母親・洪福順さんがチマ・チョゴリ姿で下宿先を訪ねて来たことから、権が在日朝鮮人であることが知られ、態度が急変した母娘はどこかに引っ越してしまった。

1951年1月5日、失業して仕事を探す権は、神戸市内の派出所から警官の制服を盗んだ。2月28日、制服を着て横浜に行き、立番していた警察官を外出させ、その隙に拳銃を盗む。その拳銃を使って、1952年1月27日、神戸市生田区三宮の京阪急行三宮駅西口のOS映画劇場神戸営業所を襲撃、次いでに2月16日、今度は京都・東山区の大和銀行祇園支店を襲撃して現金を奪った。1954年には外車を盗もうとして運転手を殺害。初めての殺人だった。

そして1955年8月29日、東海銀行大阪支店短銃襲撃事件を起こすことになる。1956年10月、大阪地裁は権に死刑を言い渡した。権は控訴しなかったが、外車を窃盗しようとして殺した運転手の妻が敬虔なクリスチャンで、権に控訴を勧めた。権はその憐れみに感動し、控訴したが、1957年9月、持病の肺結核で獄死した。

事件をほぼ忠実に再現したモデル小説に、多くの事件ノンフィクションを執筆した福田洋の「汝、恨みの引鉄(トリガー)を弾け」(ペップ出版、1983年)がある。