コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 Jフィルム・ノワール覚書① ノワールの誕生   Text by 木全公彦
遅ればせながら、5月に亡くなった野村孝について書いておきたい。新聞の訃報記事のほか、映画雑誌の追悼文もぱらぱらと流し読みをしてみたが、『拳銃(コルト)は俺のパスポート』(1967年)を代表作に挙げ、大方が日活アクション映画を担った監督としてまとめていた。それは正しい。ただ『特捜班5号』(1960)での監督デビューからダイニチ映配までの日活時代に監督した作品は30本にも満たず(それ以降の作品もわずか2本)、アクション映画だけでなく、歌謡映画や文芸映画などバラエティに富んでいるフィルモグラフィは、会社に便利に使われた証左でもあると思うが、どうだろうか。

野村孝追悼
1927年2月18日生まれということで、同世代の日活の監督の調べてみると、1926年生まれの中平康、今村昌平、1927年生まれの神代辰巳、舛田利雄、1928年生まれの白鳥信一、松尾昭典がいる。日活再開第一期生としてストレートに入社した白鳥を除けば、中平、今村、神代、松尾が松竹から、舛田が新東宝からの移籍組であるのに対して、野村は全学連の委員長として活躍した東大から青俳を経て、『億万長者』(1954年)で助監督として就いた市川崑にくっついて日活に入社したというのは、やや異色のキャリアだろう。撮影監督・高村倉太郎の証言によると、「ものすごく生真面目」な人で、「ロケーション撮影のとき、とにかく旅館へ着いても、まず自分の机を置いて、その上に筆箱出して消しゴム置いて、道具を全部並べて、その前に座ってからでないと仕事をしないという人ですよ。それも鉛筆なんかいい加減に置いてあるんじゃダメなんです。きちんと並べてないとね」(「撮影監督 高村倉太郎」ワイズ出版、2005年)

撮影監督といえば、ふだん横山実とコンビを組むことの多い野村だが、この高村倉太郎とコンビを組んだ2作品が、『拳銃は俺のパスポート』と並ぶ代表作『夜霧のブルース』(1963年)と『無頼無法の徒さぶ』(1964年)である。とくに前者は唯一の石原裕次郎主演の映画。鈴木清順も言うように、日活では石原裕次郎を撮らせてもらってやっと会社に一流監督として認められるのだ(もちろん清順には裕次郎主演作品はない)。そしてその『夜霧のブルース』は劇中で死ぬ役をほとんど演じたことのない裕次郎が死ぬ例外的作品なのだ。裕次郎は前作『太陽への脱出』(1963年、舛田利雄監督)のラストで初めて劇中で死ぬ。したがって『夜霧のブルース』はそれに続く例外的な裕次郎が死ぬ映画となるわけだが、『太陽への脱出』に比べて、それは非常に凄惨な印象を与える。たとえば日活アクションを史的に展望した渡辺武信の古典的名著「日活アクションの華麗な世界」(未来社、1982年)では「この作品は日活アクション史の流れからはやや孤立しているような印象がある」と書き、その理由をこの映画が『地獄の顔』(1947年、大曾根辰夫監督)のリメイクであるからだろうと結論づけている。ただし渡辺はこの時点では『地獄の顔』は見ていない。

では『地獄の顔』とはどのような映画なのか。