コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 Jフィルム・ノワール覚書① ノワールの誕生   Text by 木全公彦
『夜霧のブルース』
野村孝監督+石原裕次郎主演の『夜霧のブルース』の元になった、あまり知られていない戯曲『長崎』と、映画『地獄の顔』を検証したが、ここで大いに戸惑う。『地獄の顔』のクレジットに原作が明示してあるにもかかわらず、どこにも『長崎』の片鱗がないのと同様に、映画『夜霧のブルース』は戯曲『長崎』の映画化でも、映画『地獄の顔』のリメイクでもないのだ。

舞台は横浜。港湾荷役をとりしきる野上組に、ライバルの岡部組の岡部(芦田伸介)が仕事にあぶれた岡部組の労務者を雇ってくれと頼みにきた。1か月ほど前に、賃金への不満から作業員たちが暴動を起こし、騒ぎの中で岡部組の押川(深江章喜)が抜いた拳銃の流れ弾に当たって人が死んだことから、警察沙汰になり、岡部組は潰れかかっているという。ある夜、西脇順三(石原裕次郎)と名乗る男が現れ、野上(山茶花究)に面会を申し入れる。殺気立つ野上と子分たちに西脇はある話を始めた。2年前、西脇は神戸の貝塚組の幹部として羽振りを効かせていた。ある日、彼は喫茶店でオルガンを弾くみち子(浅丘ルリ子)を見染めた。西脇は堅気になってみち子と結婚する。二人は横浜にやってきて、西脇は岡部組で働きだす。みち子は西脇の子供を宿した。そしてその夜、賃金への不満から暴動が起こり、一発の銃弾はたまたまその場に居合わせたみち子に当たった。すべては野上の策謀だった。騒ぎを起こしてライバルである岡部組を潰そうとしたのだ。話を終えた西脇は、野上のからくりを暴き、野上とその子分たちと壮絶に斬り合う。野上は西脇に殺され、西脇もまた死ぬ。

渡辺武信も指摘しているように、キネ旬をもとにした配役は一部間違っているし、その渡辺が「日活アクションの華麗な世界」で書いている映画の舞台が「長崎」というのも間違い。DVDで確認がとれたので、訂正しておく。

ともあれ人物の名前が一部同じ程度で、『夜霧のブルース』は『地獄の顔』のリメイクではなく、明らかにオリジナルである。おそらくディック・ミネの往年の大ヒット曲を主題歌として借用するために、戯曲『長崎』の二度目の映画化と謳ったのでないだろうか。『夜霧のブルース』の脚本家は国弘威雄。劇中でのクライマックス、賃上げ争議・暴動は、東大全学連の委員長だった野村孝と、東芝労組書記局に在籍していた国弘威雄の共通する体験がベースになっているのだろうか。

あるところにふらりと正体不明の男がやってきて、周囲を悪意に満ちた人たちに取り囲まれて、身の上話をするというフラッシュバックによる回想を多用しながら、次第にその人物の正体と目的が分かってくるというミステリアスな構成は、渡辺武信をはじめ多くの論者が指摘するように、『切腹』(1962年、小林正樹監督)の換骨奪胎だろう。国弘威雄の師匠は『切腹』の脚本を書いた橋本忍である。国弘はデビュー作『空港の魔女』(1959年、佐伯清監督)以降、しばらくは『太平洋の嵐』(1960年、松林宗恵監督)、『いろはにほへと』(1960年、中村登監督)、『非情の男』(1961年、高橋治監督)など、師匠・橋本との共作も多い。

日本の脚本家の中で、最も構成力があると評される橋本忍は、デビュー作『羅生門』(1950年、黒澤明監督)から一貫してフラッシュバックや回想場面を多用し、それを巧みに使う脚本家で、『黒い画集 あるサラリ-マンの証言』(1960年、堀川弘通監督)、『ゼロの焦点』(1961年、野村芳太郎監督)、『白と黒』(1963年、堀川弘通監督)、『砂の器』(1974年、野村芳太郎監督)など、ミステリー/サスペンスと親和性が高い。特にその重厚な筆致は、謎ときやアクションよりも、ときとしてシニカルかつ陰鬱さが強く、今風に言うとフィルム・ノワールのそれに近い。

『夜霧のブルース』は、国弘威雄が橋本忍との共作ではなく、単独作品としては『紅の海』(1961年、谷口千吉監督)、『林檎の花咲く町』(1962年、岩内克己監督)に続く3本目の作品である。師匠である橋本忍の傑作脚本『切腹』の結構をそのまま流用することは、おそらく師・橋本忍も承知していたに違いない。

『夜霧のブルース』が荒唐無稽な楽天さに満ちた日活アクションから見ても、いわゆるメロドラマ色の濃いムード・アクションから見ても、異質なのはもはや明らかである。それを「やや孤立している」と指摘した渡辺武信が推論したように、この映画が『地獄の顔』のリメイクであるためではない。今まで検証してきたとおり、『夜霧のブルース』は、物語や形式の上では『長崎』とも『地獄の顔』とも無関係なのだから。

浅丘ルリ子との出会い、そしてつかのまの幸せを断ち切るように、絶えず裕次郎が身の上話をする暗い現実へと戻るフラッシュバックの構成。そして次第に明らかになってくる秘密。裕次郎は最後の大立ち回りをドスや拳銃ではなく、荷役に使う鳶口を使って凄惨に繰り広げる。『切腹』における竹光のようにそれは禍々しい。そしてラストの新聞記事。なんとも救いがない。

『夜霧のブルース』の暗さこそ、まさにJフィルム・ノワールというほかない。