コラム 『日本映画の玉(ギョク)』
鈴木英夫<その15> 『九尾の狐と飛丸』をめぐって[後篇]   Text by 木全公彦
悔悛する悪女
東京ヒルトン・ホテルで行われた完成披露パーティが終わっても、『九尾の狐と飛丸』はすぐには公開されなかった。配給がなかなか見つからなかったためである。中島がかつて在籍した大映とは事前に配給の約束を取り付けていたものの、中島が辞してから、わずか4年で大映の経営は火の車となっていた。結局、大映系列の劇場で、『九尾の狐と飛丸』が封切られたのは、1968年10月19日になってからのことで、完成披露パーティから一年近く経っていた。すでに書いたように興行的には惨敗。この失敗を契機に中島は、映画製作から身を引いて、政界入りをすることになるが、よほど作品の出来には自信があったらしく、文部大臣になったあと、国会議員を集めて文科省で『九尾の狐と飛丸』の上映会を開いていたという。

ところで、『九尾の狐と飛丸』が公開される直前、長篇アニメーションの本家である東映では、これまた画期的な長篇アニメーションが封切られていた。高畑勲監督の『太陽の王子 ホルスの冒険』(1968年7月21日封切り)である。宮崎駿や大塚康生が参加したアニメということもあり、今ではアニメーションに初めて作家性を持ち込んだ傑作として評価が高い作品だが、実はこれも興行的には惨敗だった。

封切りこそ『太陽の王子 ホルスの冒険』に越されたが、製作から完成までは『九尾の狐と飛丸』の方が1年ほど早い。実は、この二つの作品は並べて見ると、よく似た部分が多いのだ。『太陽の王子 ホルスの冒険』はアイヌ伝承をもとにした長篇アニメーションで、悪魔グルンワルドに苦しめられている村での少年ホルスの活躍を描く。ヒロインのヒルダはグルンワルドに滅ぼされた村の行き残りだが、実はグルンワルドの妹で、物語が進行すると悪魔の使命に目覚めてホルスへの思いとの狭間で葛藤する。これはそのまま『九尾の狐と飛丸』にもオーヴァーラップする。岡本綺堂の原作とは異なり、アニメ版での玉藻は、ある日突然、魔王の声を聞いて自分の中に本来あった邪悪な使命に目覚めるという設定になっており、言わば「眠っていた悪が覚醒する」。そして玉藻を幼馴染として愛する飛丸は、魔王に操られ悪の化身と化した彼女を助けようとする。一方の玉藻は魔王の命で日本中の仏像を鋳つぶし、それをもとに自分の姿に似せた巨大な像を建造させようとする。かくて全国から仏像が徴収され、巨大な玉藻の立像が作られる。両腕を大きく広げ、邪悪な表情を浮かべて立つ姿からはかつての美しく清楚だった玉藻の面影もない。まさに魔像である。

後半になるにつれて、アニメ版ではさらに原作を大きく改変する。飛丸は魔王に勝つため、東大寺の高僧白雲から不動明王を彫った鉾こそが魔王に勝てる唯一の手段だと聞き、東大寺の仏頭の中にそれがあることを発見して鉾を手に入れる。玉藻は魔像の唇に紅をさすため、玉藻との雨乞い合戦に敗れて自刃した陰陽師・泰親の遺児・千草を捕え、その血を立像の唇に塗ろうとする。そこに鉾を手にした飛丸が現れ、千草を救う。だが生命を得て荒れ狂う玉藻の魔像は、突風を起こし、兵たちをなぎ倒し、触手のように自在に動く黄金色の髪の毛を伸ばして兵たちを絡め取る。そこに飛丸の投げた鉾が魔像の胸に突き刺さる。その瞬間、魔像から玉藻が抜けだして苦しそうにぐるぐると回転し、やがて那須の地へと飛び去っていく。魔王は中国・インド、そして今回の日本でも、悪の支配する世界を作り損ねた玉藻の失敗を許さず、那須の地に帰った玉藻を岩に変えてしまう。その岩にすがりついて眠ったように死んでいく飛丸。その上にこんこんと雪が降り積もる。心をしめつめるような悲恋の完結である。

ところで『太陽の王子 ホルスの冒険』でヒロインのヒルダの声を担当したのは市原悦子である。市原は東映の劇場版長篇アニメーション『サイボーグ009 怪獣戦争』(67、芹川有吾監督)でも、敵側のブラックゴーストと通じる美女サイボーグのヘレナの声を担当した。ヘレナは自分の本来の邪悪な使命と島村ジョーこと009との愛の狭間で苦悩し、最後には悔悛し、そしてジョーの腕に抱かれて死ぬ。

ウディ・アレンの『アニー・ホール』(77)だったと思うが、アレンがボヤく場面で「白雪姫を見て、姫のほうではなく魔法使いのおばあさんに恋したのが初恋で、以来悪女に弱い」というようなセリフがあったと記憶するが(不正確ですけど)、東映動画で育った世代としては、『サイボーグ009 怪獣戦争』にせよ、『少年ジャックと魔法使い』(67、藪下泰司監督)にせよ、登場するヒロインは、決まって悪魔か敵の手先で、主人公を誘惑するのが使命でありながら恋に落ちてしまって苦悩し……というヒロインの姿に、子供ながら異様に心ざわめくものを感じ、その原点である東映長篇アニメーション第1作『白蛇伝』(58、藪下泰司監督)を見て、「ああ、これもそうであったか!」と感嘆し、以来、ファム・ファタールという言葉を知るまで、スクリーン上に登場する悪女に翻弄される主人公の煩悶する気持ちに、自分を重ね合わし、その倒錯した喜びに無自覚に浸っていたんだなあと思う(なんのこっちゃ?)。しかし、悪に魅入られた女性はかくも魅力的なのか! 本作で作画を担当した杉山卓も同様の思いを抱いたようで、その頃ちょうど生まれたばかりの長女に「玉藻」という名をつけようとして、奥さんに大反対されて断念したそうである。

もとよりこれらの長篇アニメーションの原作は、西洋や東洋に古来より伝わる伝承であったり、伝奇物語だったりするわけで、ユングの集合的無意識ではないけれども、人間ともののけの許されざる愛が、もののけが悔悛することであの世で結ばれるという共通の説話的構造は、世界各国に遍在するものなのかもしれない。

杉山卓は、そのような私の妄想に「イメージとしてそういうのはあったと思います」と同意をした上で、「僕らはマンガ映画屋だから、あそこまで悲劇的な最後っていうのはなかなか辛いものがあるけれども、あれは中島さんの志向なんでしょう」と述べた。そうだとすれば、それはこの作品の実質的な監督であった鈴木英夫の、決して明朗なハッピーエンドを好まない資質との関係もあったはずだ、と思ってしまう。

いずれにせよ、あまり見られる機会のない作品なので、またどこかに働きかけて近いうちに上映会を開きたいと思っている。