コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 やっとかめ、名古屋のマキノ(外伝)   Text by 木全公彦
マキノ中部撮影所の跡地に2年振りに行ってみた。名古屋にあったこの撮影所については、2年前に当コラム「名古屋のマキノ(前篇)」で少し書いた。今回は、もう少し詳しく当地を探訪してみた。

マキノ中部撮影所事務所前[1927年]

『實録忠臣蔵』

『實録忠臣蔵』

マキノ中部撮影所
おさらいしてみよう。日本映画の父・牧野省三には知世子夫人との間に、五女三男の子供がいた。上から長女・冨榮、二女・静子、三女・勝子、四女・笑子(のち恵美子、輝子、智子)、その下に長男・正唯(のち正博、雅弘、雅裕、雅広)、二男・光雄(のち満男)、三男・真三、さらに五女・博子。ほかに冨榮の上に庶子・松田定次がいるから、実際は9人の子宝に恵まれたということになる。三女の勝子は名古屋の興行主・竹本武夫の息子、辰夫のもとに嫁ぐ。辰夫は戦後、東映取締役中部支社長になる。

竹本武夫は「竹本商会」を経営し、1908年に大須に名古屋に最初の映画常設館「文明館」を建設し、日活系の映画を配給していた。おそらく牧野省三が竹本を知ったのもその繋がりだったのだろう。牧野省三は関東大震災で壊滅した東京に代わって、名古屋が映画産業の要として発展すると確信していた。港があり、平野があり、風光明媚で交通の便もよい。芸事にも熱心で理解も深い。「勇み連」という殺陣師の先駆的集団もいた(省三は彼らを京都に招いて尾上松之助以降のチャンバラ時代劇をリアルにしていく)。省三は竹本と繋がりを持つことにより、名古屋に第二の撮影所を作る決心をする。竹本は名古屋市郊外にあった道徳新町(現在の名古屋市港区道徳町)に、東海撮影所を建設するつもりで、名古屋桟橋倉庫株式会社(福澤桃介社長)が所有する土地を借り受けていた。そこに牧野省三がマキノ中部撮影所を建設することになり、道徳公園の一部を拝借して撮影所を作る。1927年1月17日に撮影所の起工式が執り行なわれ、初代所長には初代所長には当時「正博」だったマキノ雅広が就任した。

1927年6月6日に地鎮祭が行われ、牧野省三の50歳を記念して京都の天授ヶ岡撮影所で製作中だった『實録忠臣蔵』の松の廊下の撮影が行われた。撮影は大々的に宣伝され、打ち上げ花火が上がり、約5000人を越える見学客が撮影を見に来たという。続いて中部撮影所では浅野内匠頭の切腹場面、赤穂城の明け渡しの場面が撮影される。

続いて『盛綱』(1927年、マキノ省三監督)、『斑蛇』(28年、二川文太郎監督)、『光線を捕らへた男』(28年、小石栄一監督)が撮影された。牧野省三は最初教育映画を中心に現代劇を撮影する腹づもりでいたようである。11月には鈴木重吉が新しく設置された教育映画部の製作主任になり、『田中宰相の少年時代』(28年、鈴木重吉監督)が製作される。これは田中義一首相の少年時代を描いた教育映画仕立ての劇映画で首相自身も出演している。

『實録忠臣蔵』

『斑蛇』

『燃ゆる花片』

『紅手袋』
「かねて社告したマキノ名古屋撮影所特撮教育映画『田中宰相の少年時代』鑑賞会は予定の如く15日午後6時より本社講堂において金森本社事業部長の挨拶によって開会せられ特に同日昼間同講堂において映写した発声映画『田中宰相演説』および『三十蔵相演説』の両映画を映写して会員に思わぬ収穫で喜ばせ、引き続いてマキノ・プロダクション監督であり、『田中宰相の少年時代』製作者である鈴木重吉がステージに立って「教育映画」と題して、教育映画にあたる意図およびその必要を簡単に講演して喝采を博し、次いでジョニー・クインズ氏出演喜劇活劇『大速力』映写し、小林祥晃君の解説で『田中宰相の少年時代』映写に入り、義一少年の幼にしてすぐれたる人となりを如実に再現して観客の多大の感激をあたえて、午後10時半頃終わったが、当夜は会員600名本社講堂に満ち、大盛況を呈した」(「新愛知新聞」1928年2月16日付)

1928年には、名古屋撮影所は本格的に現代劇部門に衣替えし、その第一作『燃ゆる花片』(28年、マキノ正博監督)が撮影された。以降、「回想・マキノ映画」(非売品、1971年刊)に掲載のある御園京平調査による「マキノ映画全作品総目録」から抜き書きすると、『近江聖人』(28年、吉野二郎監督)、『旋風児』(28年、富沢進郎監督)、『紅手袋』前後篇(28年、川浪良太監督)などの作品が撮影されたらしい。しかし、1928年3月6日、牧野省三が『實録忠臣蔵』を編集している時に、フィルムから失火し、牧野家は全焼、フィルムの一部も焼失してしまった。

これをきっかけにマキノ中部撮影所は事実上一年足らずで閉鎖になってしまう。京都からやってきたメイン・スタッフの振る舞いが名古屋の地元財界人と軋轢を起こしていた形跡もあるので、それも遠因になったのだろう。撮影所は竹本武夫の助力で貸しスタジオとして小沢得二監督率いる小沢映画聯盟が、『掏模の家』(28年)、『ラシャメンの父』(29年)、『南方の秘宝』(29年)、『半人半獣』(29年、すべ小沢得二監督)などの撮影を続けることになる。これらの作品はマキノが買い取り、全国配給をした。だが、これも長く続かず、1930年頃には完全に撮影所は閉鎖された。撮影所があったのは実質3年にも満たない期間であった。