コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 やっとかめ、名古屋のマキノ(外伝)   Text by 木全公彦
道徳公園南口[2012年撮影]

道徳地方の歴史を刻む頌徳碑[2012年撮影]

道徳公園の歴史[2012年撮影]

月見池[2012年撮影]

1928年のクジラ[名古屋市博物館蔵]

現在のクジラ[2012年撮影]

山神社[2012年撮影]
道徳公園から山神社へ歩く
マキノ中部撮影所が建設された道徳公園は、1926年8月に豊田土地区画整理組合が着工を始め、都市計画第24号の公園として1927年に完成した。それが貸与され、マキノ中部撮影所の一部となったのである。

道徳公園は、名古屋駅から名鉄名古屋本線、または金山駅から名鉄常滑線で約20分。道徳で下車して、国道247号線を背にして歩くと3分ほどのところにある。近所に松原智恵子の実家があるはずだが、確か彼女の実家は銭湯だったから、それで後年テレビ『時間ですよ』にキャスティングされたのだといわれるが、もう『時間ですよ』に出演する時点では銭湯は閉めてしまっていたらしい。したがって今はもうどこが松原智恵子の実家なのかは分からない。

公園ができたばかりのときに園内にコンクリートで作られたクジラのモニュメントは、今も道徳公園にある。かつてはクジラの頭から噴水が潮のように吹き出ていたという。今はなんともケバケバしい真っ青な色をしているけれども。昔、このあたりは海で、クジラもやってきたことから、このモニュメントが作られたのだそうだ。

もうちょっと見たい人はここを参照されたし。

クジラのモニュメントの手前には池がある。『實録忠臣蔵』が製作されたときは、この池を城の堀に見立てて橋がかけられ、赤穂城明け渡しのシーンが撮影された。その頃の池は、現在の3倍の大きさがあり、現在、「文政のみち」と呼ばれる公園の南口から伸びた細い路に沿って建てられた市立大江中学校の校舎のあたりまであったようで、当初は黎明池と呼ばれていた。その後、縮小されてボート池と改名し、戦後は月見池と呼ばれ、現在に至っている。

かつてこの地にあったマキノ中部撮影所は、この公園の一部から南側の「文政のみち」を挟む市立道徳小学校と市立大江中学まですべてその撮影所の敷地であった。ちなみにこの小学校と中学校が松原智恵子の母校である。大江中学のある場所に『實録忠臣蔵』の撮影で赤穂城のセットが建てられた。

歩きながら、近所の人に話を伺う。もうかれこれ80年以上前のことだというのに、近所に住むお年寄りは「撮影所? ああ、あったと聞いているよ」なんていう返事が当然のように返ってくる。撮影所所内にあった稲荷神社は、現在は今も「山神社」としてある。境内を散策すると、本殿の裏の稲荷に「文明館職員一同 昭和二年十月建立」と彫られた一対の献灯があった。繰り返しになるが、文明館は名古屋で最初の常設館で、その経営者は竹本武夫である。牧野省三の三女・勝子がその令息、辰夫に嫁いできたために、牧野家と竹本家は親戚関係になった。献灯にある「昭和二年」はマキノ中部撮影所ができた年である。留守だった社務所に住職が戻ってきたので話を伺った。千種区にあった山神社を1930年に観音山の一部に遷し、1942年に現在の場所に移転したのだという。文明館寄贈による献灯は撮影所の中の稲荷にあったものをそのまま引き継いだものらしい。

山神社の道路を挟んで手前にはかつて撮影所のステージがあった。その隣には、現在は山神社の斜め前に前面に駐車場のついたファミリーマートがあって、裏手は道徳5丁目の住宅地である。このあたりはかつて牧野省三の名古屋邸があったところ。その横は小道具などの倉庫である。驚くべきことに現在もこの倉庫はそのままの形で残されている。なんでも戦争のときの焼夷弾で内部は被災したというが、二階はサッシの窓枠に変えられているものの、モルタルの壁やトタンが打ちつけられた部分は当時のままだという。




献灯[2012年撮影]
碑文[2012年撮影]
撮影所の倉庫跡[2012年撮影]