名古屋のマキノ(前篇)
今年2010年は、名古屋開府400年記念だそうである。つまり名古屋城ができて400年経つということ。それを記念して、地元では荒俣宏をゼネラル・プロデューサーに招いて(名古屋出身じゃないのに!)、いろんなイベントも企画されていると聞くが、ちょっと肝心なことを忘れていませんか、ってんだ、てやんだ、こんちきしょう!(江戸弁かい!)。名古屋といえば、かつてマキノ雅広が所長を務めたマキノ中部撮影所があった場所ではないきゃーも。ああ、それなのに、それなのに。

マキノ雅広生誕百年であった2008年も記念行事らしきものもなく、名古屋在住の映画関係者やマキノ研究者からも何の指摘もなく、それどころか名古屋で大々的なマキノ雅広特集すら行われなかった。これでは1980年代以降、文化不毛の地と呼ばれ、お膝元に世界のトヨタを抱える大都市だというのに、地元の人ですらコンサートも美術展も名古屋だけを飛ばしていく現象を“名古屋飛ばし”と自嘲する有様で、これじゃいかんでしょ! ――というわけで、今回はマキノ中部撮影所について書く。

マキノ雅広の自伝「映画渡世」には、次のような記述がある。

〈父(マキノ省三)は、海あり山あり平野ありという地理的条件からだけでも、名古屋が大きく発展する都市になるだろうと考えていた。ちょうど名古屋の興行主竹本が親戚になったこともあって(三女勝子が竹本辰夫と結婚していた)、名古屋市外の道徳という埋立地に撮影所を建設した。そこに『忠臣蔵』の松の廊下と赤穂城明け渡しの橋のセットが造られた。深い大きな堀を利用した『忠臣蔵』のセットが出来たのである。
名古屋撮影所の初代の所長に満十九歳の私が任命された。昭和二年末、月形龍之介と駆落ちした姉が帰って来た。そして、輝子を智子と改名し、再出発の作品として、私の監督で、名古屋で『燃ゆる花片(はなびら)』を撮ることになった。




道徳新町マキノ撮影所全景
(略)
父は、名古屋市外道徳に建設したマキノ中部撮影所の開所披露を兼ねて、(『實録忠臣蔵』を)諸口十九の浅野内匠頭、嵐長三郎の脇坂淡路守、市川小文治の吉良上野介で、殿中刃傷の場からクランクインした。この時には東京から新聞記者団も見学に来れば、木戸幸一侯爵、政友会代議士の領袖、大口喜六をはじめ政界の名士も多数参観するなど、すべり出しの宣伝には事欠かぬ賑やかさであった〉


補足しておこう。
マキノ雅広の父で日本映画の父といわれるマキノ省三の三女、勝子は名古屋初の常設映画館、大須の文明館を経営していた興行師・竹本武夫の子息、辰夫のところに嫁いでいた。

「映画渡世」の中でしばしば「口の悪い姉」として登場する、あの姉である。テレビ番組『あゝにっぽん活動大写真』(78、毎日放送)では宮本信子が演じていたが、なぜか名古屋弁丸出しだった(そんな!)。竹本武夫の経営する「竹本商会」が名古屋地区におけるマキノ映画の配給を取り仕切っていたことが縁になったようである。ちなみに、勝子の夫・竹本辰夫は、戦後、マキノ光雄のツテで東映取締役中部支社長に就任する。
そんな縁もあり、「竹本商会」の盟主・竹本武夫は、自ら東海撮影所を建設するために購入していた名古屋市郊外の道徳(現在の名古屋市港区道徳町)の用地を、新たに撮影所の建設を画策していたマキノ省三に貸与する。1927年6月、マキノ省三は面積25,000坪の道徳公園の一部10,000坪にマキノ中部撮影所を建設(敷地所有者は、名古屋桟橋倉庫株式会社)。マキノ省三はここを当初は聯合映画芸術家協会」のための貸しスタジオにして、現代劇・教育映画専門の撮影所として使うつもりだった。
初代所長には当時「正博」だったマキノ雅広が就任。マキノ省三は50歳を迎えた記念として一世一代の大作『實録忠臣蔵』を製作することにし、マキノ中部撮影所に松の廊下のセットを組み、そのお披露目のデモストレーションを兼ねて撮影所をスタートさせた。
ところが、マキノ省三は撮影を終えた『實録忠臣蔵』を編集中、不注意が元でネガから発火し、火災になり、映画の大部分を焼失する。その後、片岡千恵蔵を皮切りに、嵐寛三郎(寛寿郎)等、50余人名におよぶ役者がマキノを脱退するという、マキノプロダクションのスター大量脱退騒動が起こる。弱り目に祟り目。せっかく名古屋に開所したマキノ中部撮影所もあっというまに閉所となる。短い命だった。

マキノ中部撮影所に関する最初期の新聞記事は、1926年12月25日の名古屋新聞に登場する。その段階ですでに撮影所で『實録忠臣蔵』の撮影が行われる予定であったことが分かる。マキノと提携関係にあった勝見庸太郎率いる勝見プロダクションも引っ越してくることになった。
1927年1月17日、マキノ中部撮影所の起工式と地鎮祭。6月6日、オープンセットで建てられた松の廊下の撮影が開始。マキノゆかりの映画人や地元の著名人等を招いての公開撮影だったようで、「新愛知新聞」1927年6月6日付には、「5千人の人が集まった」と書かれてある。実質的なマキノ中部撮影所第1作はマキノ正博監督作である『燃ゆる花片』(28)である。11月、教育映画部を設置。製作主任に鈴木重吉が就任する。

ちょうどこの頃の新聞に興味深い記事があるので、転載引用する。

〈「マキノに刺激され続々撮影所設置の計画」〉

〈日活、松竹その他の各社が虎視眈々 中京に撮影所の競争時代来たらん。復活の貞奴が川上児童劇団を組織した頃、旦那福澤桃介氏は京演技座の改築と名古屋築港プロダクション2つを計画して貞子夫人の芸術の墓場をつくろうとし、名古屋撮影所のプランは当時大同系の技術家によって成り立っていたのであるが種種の故障があり明るみに出ずに葬られ、赤坂の濱射座が実現する事になったが、その約4年を閲して、福澤氏が先見の明を掛けた南区名古屋桟橋倉庫の地所道徳新町の辺りは映画界の化物マキノが大プロダクションを目論むところとなり、5ヵ年の契約で荒涼たる新開地大グラススタジオとこれを取りかこむ文化村が建設される事になった事はすでに報じた通りであるが、マキノプロダクションの中京撮影所の出現に刺激されて映画界と土地界と、私設鉄道会社は一大センセーションを巻き起こす事となり、伊勢町の田中貞二氏が松竹キネマと愛電重役をかねている所から松竹キネマの中京撮影所を誘導するだろうと伝えられ、また日活会社が虎視眈々として名古屋の土地を欲しつつあり(むしろ松竹より可能性が濃厚)、最近某方面へ観測に来たことも伝えられるが、ひるがえって、名古屋市内でも松井不朽氏のサクラプロダクションは今回愛電沿線鳴海町、鳴海グランドに隣接して建坪150余坪のグラススタジオを営む事になり2月早々の工事に着手すべく、設計もほぼ完成している。かくてマキノ、日活、松竹、その他もろもろ群小プロダクションが東西文化の衝、名古屋の地を欲して事業的侵略と人気争奪の合戦を現出するに至った事は注目にあたいする〉(「名古屋新聞」1927年1月29日付)。

愛電とは現在の名鉄の前身である。
1927年12月25日、マキノ中部撮影所にて『實録忠臣蔵』の赤穂城明け渡しの場面の撮影。完成予定を大幅に遅れて1928年3月5日クランクアップ。前後してマキノ中部撮影所は、当初の計画どおり現代劇専用スタジオになる。専属俳優に、杉狂児、東郷久義、都賀静子、滝沢憲、津村博等、監督はマキノ正博、鈴木重吉、吉野二郎、富沢進郎、川浪良太等のいわば京都出向組が所属する。


『實録忠臣蔵』の赤穂城オープンセット


『實録忠臣蔵』赤穂城明け渡しの場面
(左端が大石主税に扮したマキノ正博)


『實録忠臣蔵』松の廊下のオープンセット
クランクアップの同日、1928年3月5日、『實録忠臣蔵』編集中に出火。マキノ省三邸も丸焼けとなる。そしてその火事のあとにはマキノプロダクションのスター大量脱退、3月25日には現代演劇部の京都移転により、マキノ中部撮影所は閉鎖が決定する。

〈マキノ省三邸の火災に前後して秘蔵俳優月形龍之介、監督井上金太郎及びその一党の脱出、杉狂児、鈴木澄子一派の脱退とかんばしからぬできごとと相次いでいるマキノプロダクションは、最近マキノ千代子夫人の専横からお家騒動まで起こり、マキノの前途に対し世上種種の取り沙汰を生むに至ったが、去る25日限り突然閉鎖を断行し、京都御室撮影所に属する監督俳優その他90名は全部京都に引上げる事になった。昨年3月『忠臣蔵』松の廊下刃傷の場面を皮切りとして花やかに開所して以来、約1年、この間に現代劇『赤手袋』『旋風児』、教育映画『近江聖人』『田中大将の少年時代』、青年団宣伝映画『空は青雲』の全5本(全6篇)を名古屋作品として発表したのみである。
なお同撮影所内のマキノ教育映画部も同時に解散し、所属の監督鈴木重吉、技師酒井健三、俳優瀬川つる子、その他は一人残らず解雇を申し渡された。
マキノ名古屋スタジオが突然のこの荒療治に出たのは、内面には種種事情があるが、元来マキノ京都内部が家族主義の美名に隠れて所親紊乱し、従業員は放逸堕落して能率のあがらざることおびただしく、この連中が名古屋へ押し寄せて来て京都式そのままに振るまうので、今月できる写真が1ヶ月2ヶ月も要するという具合で人件費撮影費はめちゃくちゃにぼうていして到底採算が取れない、所長竹本武夫氏は再三この弊風の改革をはかったが、一向に行われず、とうとう竹本武夫氏のカンシャク玉の破裂となり、「みんな追い返してしまえ」と号令が出るに至ったもので、今回の撮影所閉鎖は新規巻き直しの口実であるといわれ、京都派の俳優追い返しについては、京都側から「全部そっちで解雇を申し渡してくれ」といって来たのを「こちらで雇用したのでないからそちらで始末してくれ」といって全部京都に送り返すことになったものである。
マキノ中部支社では今後の問題について「まだ発表の段階ではないと沈黙しているが、確聞すれば名古屋撮影所は竹本武夫氏を盟主として独立し、マキノの現役従業員は一切加えずに、相当著名な監督、俳優を各方面から引き抜いて健全なる制度のもとに、月5、6本づつ製作してゆく方針で、その組織は株式会社とし、名簿も改正して相互信託的に幾組かのプロダクションを寄生せしめ、これに資本を供給し、その製作品を竹本氏の手で配給することになるらしく、新加入の俳優中には五月信子もあり、発表の日はセンセーションを起こすものと見られている。(略)」(「名古屋新聞」1928年4月25日)〉


「京都派の追放」とは穏やかでないが、結局、撮影所そのものはもうちょっとあとまで残り、そこで阪東プロ出身の小沢得二監督が小沢映画聯盟を興し、五月信子主演で撮影を続け、その作品をマキノが買い上げる形になる。しかしその小沢映画聯盟も1年も持たず瓦解。1930年前後には撮影所は取り壊しになった。この撮影所で撮影された映画は、不正確だが、マキノ映画6,7本、小澤映画聯盟作品4、5本、計10本余ではなかろうか。まあ、そのあたりは今後の宿題。


マキノ中部撮影所があった場所は、現在、道徳公園と道徳小学校になっている。

さっそく現在の道徳公園がどうなっているか撮影してきた(2010年撮影)。



1927年に建造されたクジラのモニュメントがある手前にかつては撮影所の入口があり、裏手にはマキノ省三の別宅があったらしい。赤穂城のセットは公園内の月見池に沿った形で建設され、池には橋がかけられたという。

兵(つわもの)どもの夢の跡である。マキノ雅広生誕百年には間にあわなかったけれども、名古屋開府400周年を記念して、地元の映画史家がこの地に記念モニュメントを造るための運動をしていると聞いた。あんまり盛り上がっていないみたいだが、マキノ省三像とはいわん、せめて石碑ぐらい建ててほしい。ぜひ!

以下、つづく。

Text by 木全公彦