映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第44回 60年代日本映画からジャズを聴く その5 今回は豪華二本立てメニューでお届け!
次は火だ、で、どこが?
さらっと書いてしまったが、ジャズ発祥の地がサンフランシスコだということは「ジャズ発祥の地がニューオリンズではない」ということを意味するわけで、これを読まれた常識人というか善男善女の皆さまは今「エーッ?!」と声を上げて驚かれたはずだ。私も皆さま同様の善男善女であるからそれは驚いた。ヤマタイ国がハワイだと言われてもこれほどは驚かない。エジプト人が火星人の末裔だという説を読んで以来の驚きだ。この本はこうした話題が三頁めに現れると、そのまま問答無用で最後まで突っ走るから覚悟を決めて読まれたい。
こうした新しい説が果たして正しいものかどうかは、ほとんどの読者の皆様同様、私にも判断は全く出来ない。それはそうだ。よく考えてみれば「ニューオリンズ発祥説」にしたところで、私にそれを正しいとする客観的論拠があるわけではないのだった。本書の重要性は、つまりそうした通説の正当性に疑いの目を向けさせる点に存するのであって、よく読めば「サンフランシスコ発祥説」にしても、それを中山が支持するかどうかには力点が置かれていない(この辺は微妙なところだが)。
中山がとりあえず言いたいのは「ニューオリンズ誕生地説は『幻想としての故郷』の位置まで下落した」という一行(未満)にある。この言葉が表れるのは二頁めである。中山の挑発的な言葉に対して当然しかるべき反論も表れるであろうが、先に述べたように私にはその資格もないし能力もない。だが、ここからが今回私の言いたい点であるが、ニューオリンズがジャズの「幻想としての故郷」だとする視点の転換によって、実に刺激的な様々な仮説(とりあえずこう呼ぶ)がジャズ史に出現することになる。そうした事態が尊い。そう言いたいのだ。
長々と記してきたが、実はまだ「序文」も完全に紹介しきれていない。別にくまなく紹介するつもりもないからそれは良いのだが、そうした刺激的な仮説の筆頭が、ジャズ史におけるロサンゼルスの役割の読み替えなのである。私自身、本コラムにおいて「ウェスト・コースト・ジャズ」の概念を通念に則ってこれまで記述してきた。それで特に問題も発生しなかったつもり。ではあるが、本書で中山が試みているのは、こうした通説をひっくり返すのではなく、むしろ通説を「単なるエピソードの一つ」にしてしまうようなジャズ史の広大な領野の開拓だと言える。ジャズとは「白人と黒人」の、「ヨーロッパとアフリカ」の、「ハーモニーとリズム」の衝突によって生まれた音楽であり、それ故ニューオリンズが故郷の筆頭たりえたのだが、衝突は本当にニューオリンズ以外では起こらなかったのか、と中山は問題を設定する。

注意して読んでもらいたいが、衝突がニューオリンズで起きたことをこの問題設定は否定していない。分かりやすく言えば通説は特に否定されていない。ただ、他の地点でも文化的衝突はあり、火花が散ってアメリカ各地で火事(文化的な)が起きた、と考えた方がより「ジャズ的」ではないか、ということなのだ。ジャズ研究家ジョン・F・スウェッドは「ジャズ・ヒストリー」(諸岡敏行訳、青土社刊)の中で十八世紀後半のフィラデルフィアにもそうした文化的火花が散ったと述べているし、既述トム・ストッダードは十九世紀中盤のバーバリー・コーストを引き合いに出していた。そして中山康樹。
彼は(ちらっと書いておいたが)ジャズ発祥の地の詮索を本書のテーマにしたのではなくて、こうした衝突の事例をロサンゼルス、二十世紀前半から中盤のセントラル・アヴェニューに見たのであった。本コラムの主題の一つであるアメリカ映画音楽とジャズの関わりについても色々とためになる指摘がなされており、場合によってはこれまでの本稿の記述にも書き直しや書きたしの必要が生じるかも知れない。楽しみだ。