映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第38回 アメリカ60年代インディペンデント映画とジャズ   その4 『アメリカの影』の映画史的位置その他
カーティス・ポーターのプロフィル
そこで問題のシャフィ・ハディ。ミンガスのグループ、この時代の彼のコンボは特に「ジャズ・ワークショップ」と呼ばれるが、そのメンバーの一人である。
グループ名からうかがえるようにジャズマンの音楽共同体的な建前を保持し、従ってメンバーも流動的である。ハディが参加したのは既述アルバムの他、「道化師」“Clown”(イーストウェストジャパン)「メキシコの想い出」“Tijuana Moods”(BMGビクター)がある。それなりに注目された模様だが、ミンガス・グループを離れてからは録音を残していない。いわば「幻のテナーマン」と言える。しかしハディと改名する前に本名カーティス・ポーターで活動していたことが判明しているため、ある程度のことを記述できる。というのは、ポーター名義で何故か「ハンク・モブレー」“Hank Mobley”(Blue Note)に参加しているのだ。しかも「マイティ・モー・アンド・ジョー」“Mighty Moe & Joe”と「ニュース」“News”の自作曲を二曲もアルバムに入れている。モブレー自身も自作曲にこだわるタイプのテナーマンだから、扱いとしてはかなり異色である。これは多分レーベル主宰者アルフレッド・ライオンがポーターに注目していたからである。モブレー人脈ではない三人のジャズメンがこのアルバムで初めてフィーチャーされ、その一人がポーターなのだ(残る二人はピアニスト、ソニー・クラークとトランペッター、ビル・ハードマン)。アルバムのライナーノーツもポーターへの注目を隠さない。今となっては極めて貴重なポーター紹介文だ。その部分だけかいつまんで記してみよう。

ポーターはテナー及びアルト・サックス担当。フィラデルフィアに1929年9月21日生まれである。祖母に育てられ十歳の時に楽器を勧められる。より広範なリード楽器全般の知識を得るために、彼がまず選んだのはテナーでなくクラリネットであった。エリントン、ベイシー、グッドマンでジャズに目覚めた彼は、ついにデクスター・ゴードンと出会う。「デクスターを初めて聴いた時はまさしくピストルで撃たれた感じだったが、実は今でもその傷を負っている。私に関してはチャーリー・パーカーよりも強い印象を覚えたものだ」。これが1946年のことだった。同年ハワード大学に入学するとクラリネットと作曲を専攻。三年間の後、デトロイト大学に移り一年、ここでテナーにスイッチした。彼はまた優れた画家でもあるが、そっち方面への野心はなく、表現手段としてはテナー一本槍である。デトロイト近郊で働き始めたポーターはやがて東部へ。そこで最初に一緒にセッションを行ったのが偶然だがこのアルバムにも参加しているポール・チェンバースである。そして同じ頃、ベニー・ゴルソンにも出会っている。「彼の存在には刺激を受けた。やらなくっちゃ、という気分にさせてくれたね。彼は大人で、私はほんの赤ちゃん。彼に比べると私のやっていた何もかもが間違いだったと気づかせてくれた」。1951年から54年にかけてはリズム&ブルース・バンドで働き、そして1956年クリスマス、ニューヨークにやってきた彼はチャーリー・ミンガスのバンドで初めてセッションを行ったのだった。ここではアルトも初体験。アルトは短い期間しか吹かなかったものの、自分自身のサウンドに目覚めた、つまりチャーリー・パーカーの模倣でない音に出会えたと語る。「私はいつでもバードの天才を尊敬しているが、彼のように吹きたいとは考えなかった」。彼の音楽は多分1940年代中盤のデクスター・ゴードンとワーデル・グレイになぞらえられるだろうが、それ自身でオリジナルなものでもあり、そして今日ではチャーリー・ラウズが最も好きなテナーマンとのこと。他に好きなジャズメンとして彼が上げるのはディジー・ガレスピー、バド・パウエル、ミンガス、ポール・チェンバース、オスカー・ペティフォード、ラッキー・トンプソン、エルヴィン・ジョーンズ、ダニー・リッチモンド、ソニー・ロリンズである。カーティスは自身のジャズの目標を、作曲を軸に展開しようとしている。「ジミー・ジュフリーとギル・フラーが私のやりたい音楽に最も近い」という。彼の望みは小編成のグループを率いて映画音楽を担当することである。

最後の一文を読めばハディが『アメリカの影』の音楽をミンガスから引き継ぐべくして引き継いだ、とわかる。