映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第35回 アメリカ60年代インディペンデント映画とジャズ   その2 クラーク、ワイズマン、そして『クール・ワールド』
ジャズ的側面から見た『クール・ワールド』
その何もかもがリアル、婉曲表現も言い逃れもなし。それは、マル・ウォルドロンが担当しディジー・ガレスピー五重奏団によって演奏される映画音楽においても言える。ウォーレン・ミラーの小説とそれに続きミラーとロバート・ロッセンにより執筆された戯曲版に基づいて、フレデリック・ワイズマンが制作した『クール・ワールド』(監督はシャーリー・クラーク)はハーレムの生活の比類なき蒸留抽出物となっている。或る意味これは「ゲットーの若者」に関する“動く”概括レポートである。
このレポートはHARYOU(「ハーレムの若者に機会を与える無限責任会社」の略称)が作成したもの。HARYOUはレポートの副題を「無力の及ぼす結果についての研究」としたが、それはまさに『クール・ワールド』そのものではないか。黒人の若者達、彼らは人生のあらゆる局面において真の自由も職業機会への期待も厳しく制限される偏見の悪徳に囚われており、それ故、時に彼らは自分達を押しつぶそうとする社会に対して攻撃的になることで対応することになるだろう。『クール・ワールド』では、十五歳の少年デュークがそうした若者の一人である。
映画は、彼が自分にとって唯一開かれていると思えるやり方で男らしさを獲得しようとする様を追っていく――その方策とは即ちギャングの頭目としての力の獲得と一丁の銃を得ることである。デュークの未熟で絶望的な冒険をたどる過程で、私達はまた彼と同じ境遇のプリーストのような他の若者達にも目がいくようになる。彼はいっぱしのごろつきになるためにゲットーを「卒業した」男である。だがプリーストの力でさえ、暗黒社会の白人主導の権力構造の前ではもろくも崩れおちる程度のはかないものなのだ。結局はその構造が彼を殺すのである。痛切なサブテーマはデュークと、彼がコニー・アイランドに連れて行くまで海を見たことがなかった少女ルーアンとの関係だ。彼女もそこで迷子になってしまうのだが。映画の三重のクライマックスは、デューク達ギャングの喧嘩とダウンタウンのギャングによるプリースト殺害と警察によるデュークの荒っぽい逮捕劇だ。
マル・ウォルドロンはこう強調する。「映画は真実に満ち強烈なものであるから、私が書く音楽もまたそうあらねば。シャーリー・クラークと俳優達同様に私も率直でありたかった。スコアに、私はこれらの若者の荒廃とその絶望的な虚勢を盛り込もうと努力した。」マル・ウォルドロンがそれに成功したことは、このアルバムが証明しているが、ガレスピーによるスコア解釈はゲットー生活を特徴づける緊張感とそこからの自己破壊的解放とをさらに強めている。ガレスピー自身が――「ボニーズ・ブルース」の内省的で強烈な抒情性から「デュークス・アウェイクニング」の辛辣な一突き、そして「デュークス・オン・ザ・ラン」の徐々に近づいてくる不安感の表現まで――レコードにおいてこれほど鋭く表情に富んだ演奏を聴かせることはめったにない。
スコアの最も印象的な楽曲の一つ――五重奏団の演奏で最も印象的ということでもある――が、「コニー・アイランド」である。デュークとルーアンにとって、伸び広がる砂浜と限りのない大洋とは、ゴミゴミして高血圧症状を呈する監獄のような彼らのアップタウンの通常の住まい方の場面と赤裸々な対照を示している。その音楽はこの静かなオアシスにおけるデュークとルーアンのまずは物珍しさの感情を、そして束の間の没入を反映したものだ。それぞれのトラックはさらに詳しく見れば、『クール・ワールド』における個々の要素の締まった、説得的な描写となっている。人は、若きデュークが自分のための場所を発見しようとする様を、そのどんどん加速していく欲求を、音楽を通じて感ずることが出来る。同時にルーアンの本質的な無垢(洗練されたセクシーさにも関わらず)も明らかになる。 そして陰気で不吉なものが、圧縮されたフラストレーションの一つとして底に流れており、プリーストの死とデュークの無駄な人生によりついに爆発する。ニューズウィーク誌は本作をこう評した。「これを、汚らしい35ミリサイズの陳腐な連続もの写真絵ハガキだと思ってはならない。これは事情に通じた深い憐れみから発された芸術作品なのである。」同じことがマル・ウォルドロンのスコアとガレスピー五重奏団の演奏ぶりについても言える。

(以下次回)