映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第35回 アメリカ60年代インディペンデント映画とジャズ   その2 クラーク、ワイズマン、そして『クール・ワールド』
まずクラークのキャリアの総括から
彼女のキャリアは舞踏家として始まる。1940年代後半、ニューヨークの「YM‐YWHA」(青年ユダヤ人男性女性協会)を拠点に形成されていた前衛ダンス集団による舞台公演に参加し、また若い振付家のためのハニヤ・ホルムの授業を取っている。1953年、ダニエル・ナグリン作・振付『陽光の中のダンス』“Dance in the Sun”を映画化。ここでクラークは新しい映画的空間とリズムを創造するために「振り付けられた編集」という方法論を用いている。それから彼女はダンスを主題としない作品『パリの公園にて』“In Paris Parks”(54)にこの彼女独特の映画的振付スタイルを適用した。そしてさらにその形式的振付の映画的可能性をダンス映画『闘牛』“Bullfight”(55)『愛の瞬間』“A Moment in Love”(57)に探った。この時期クラークは映画制作をニューヨーク市立大学でハンス・リヒターに学び、キャメラマン兼監督ピーター・グラシャノクの略式映画制作クラスに参加している。
1955年、「IFA」(インディペンデント・フィルムメイカーズ・オブ・アメリカ)のメンバーとなる。これは短命に終わったが、インディペンデント映画の配給宣伝の改善を目論んでニューヨークで組織されたもの。IFAを通じて、クラークは前衛映画作家マヤ・デーレン、スタン・ブラッケイジ、ジョナス・メカスを含むグリニッチ・ヴィレッジの芸術サークルの一員となった。またこの組織が彼女に、前衛映画の発展のためには経済的な機構が重要であることを知らしめ、それが1960年代を通して彼女が擁護した大義となったのである。
クラークは、1958年ブリュッセル万博アメリカ館で上映するために作られたアメリカ人の生活に関する一連のフィルム、通称『ブリュッセル・ループス』“Brussels Loops”で、ウィラード・ヴァン・ダイク、ドン・アン・ペネベーカー、リッキー・リーコック、ウィートン・ガレンタイン達と協働した。ニューヨーク市橋の既存の記録フィルムを使用し、フィルム編集技術、キャメラの振付、そして「自然の事物を踊りの抽象的な要素の詩へと変換するフィルム染色」を用いて、彼女はそれを傑作実験映画『ブリッジス・ゴー・ラウンド』“Bridges-Go-Round”(59)に仕立て上げる。それは1950年代の抽象表現主義映画を代表する傑作として最も広く見られるものとなった。1958年、クラークはヴァン・ダイク、ペネベーカー、リーコック、ガレンタインと共に記録映画『摩天楼』“Skyscraper”を、続いて『恐ろしい時間』“A Scary Time”(60)を、こちらはユニセフに委任されて作った。またクラークは詩人ロバート・フロストに関するフィルム『世界と恋人の喧嘩』“A Lover’s Quarrel with the World”(63)を公共放送用に作ったが、局との芸術的不合意その他の公約により、共同監督のクレジットを残したまま映画完成以前にこのプロジェクトから去っている。
リーコックとペネベーカーの記録映画において発展しつつあった「シネマ・ヴェリテ」スタイルに影響されて、クラークは二本の長編劇映画『ザ・コネクション』『クール・ワールド』をシネマ・ヴェリテに翻案した。『ザ・コネクション』はニューヨーク・インディペンデント映画運動の勃興期を代表する記念碑となっている。それは映画的リアリズムをより強調し、低予算モノクロ映画に重要な社会問題をこめる新しいスタイルの先駆けであった。それはまた、ニューヨーク州における検閲規定の廃止のために彼女が繰り返し闘うことになる法廷闘争の最初のテストケースになった映画としても重要だ。次の劇映画『クール・ワールド』はハリウッド的道徳主義に頼ることなく黒人のストリート・ギャングの物語を映画化した最初の作品であり、ハーレムでロケーション撮影された最初の商業映画である。
1967年、クラークは黒人同性愛者にインタビューする90分のシネマ・ヴェリテ『ジェイソンの肖像』“Portrait of Jason”を監督。これはある人物の性格を巡る洞察力に満ちた調査ではあるが、シネマ・ヴェリテという方法論の射程範囲と限界をも同時に示す作品となった。クラークの映画はアメリカにおいて商業ベースではほどほどの回数しか上映されなかったし、成功とは名ばかりであったが、映画祭で受賞するようになっていた。ヨーロッパにおいて作品が絶賛され、それが彼女を(アメリカでなく)ヨーロッパの映画観客の間で最も高く評価されるアメリカ・インディペンデント映画作家の一人にした。
60年代、クラークはまたニューヨーク・インディペンデント映画運動の発展のために働いた。1961年、マニフェスト「ニュー・アメリカン・シネマ宣言」に署名した二十四人の映画作家製作者の一人となったのである。これはハリウッド式の映画作りに対して経済的、芸術的、政治的代替物を求める声明であった。1962年、ジョナス・メカスと共に彼女はインディペンデント映画のための非営利配給会社「映画製作者共同組合」を設立。さらに後にはクラークとメカスは映画作家ルイス・ブリガントと共に「映画製作者配給センター」を設立した。これは商業劇場にインディペンデント映画を配給するための会社である。1960年代を通じて、クラークはアメリカやヨーロッパの博物館や大学でインディペンデント映画についてレクチャーした。そして1969年、彼女は自らが働く主要メディアとしてヴィデオを選ぶことになった。
ラビノヴィッツによる考察はここまでで終っているが、現在の映像環境から捉えればこれ以後のヴィデオ映画作家としての側面も重要であるに違いないことは吉田さんのコラムでも示唆されていた。本論考はクラークのキャリアに注目しながらも、より劇映画的な二作品をクローズアップするものなので、この先はとりあえず考える必要はない。