映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第29回 アンドレ・プレヴィンのジャズ体験   その4「ショー・マスト・ゴー・オン」
ハリウッドの「天才児」と「王様」の音源を一緒に聴いてみよう
前回は初期プレヴィンのアルバムを少し紹介したが、今回はまず、さらにずっとさかのぼって彼のジャズを聴いてみたい。日本盤は出なかったようだがタイトルは「ミュージック・アット・サンセット」“Music at Sunset”(da music)で、ドイツのレーベルらしい。面白いのは演奏者で何とアンドレ・プレヴィン、ナット・キング・コールの連名である。と言っても裏面でクレジットを確認すればすぐわかるのだが、別に連弾をしているのではない。キング・コール・グループが五曲、プレヴィンが残り十一曲(形態は様々)を演奏している。
本稿の性格上キング・コールは割愛、プレヴィンにだけ注目することにして何より最初指摘するべきなのは録音日時である。最も早いのは1945年10月13日、以後11月5日、46年3月25日、3月29日、5月31日、全五回のセッションでソロピアノ、トリオ、セクステット(六重奏団)の形態だ。よく知られた楽曲に交じってプレヴィン作曲(フォノコという人物と共作になっている)によるものも四曲収録されている。こういう録音アルバムがひょこっと、それもドイツから出てしまうというのがプレヴィンの大物ぶりを示すものであろうが、どういう由来かがあまりわからない。とりあえずライナーノーツを読んでみたい。短いのでまるごと。

「特別な何かを作り上げるために、適切な時間、適切な人員が集結する場所というのが存在するものだ。そうした場の一つこそがラジオ・レコーダーズ・スタジオで、そこにエディ・ラグーナは、彼のささやかなレーベル、サンセット・レコード・カンパニーのための録音機会を設けた。彼はスタジオにそれまでと全く異なる傾向の音楽を持ちこみ、この「アット・サンセット」レコーディングは間もなくジャズの歴史に名を残すことになった。このCDでの二人のピアニストは異なる背景を持っていたものの、共通点も一つある(それが「ジャズ」だという意味。筆者注)。ナット・キング・コールは当時既にアメリカ娯楽産業の輝かしきスターで、アンドレ・プレヴィンはヨーロッパでのクラシック音楽修業を終えた天才児と称されていた。最も早いセッションでの彼はわずか十六歳であった。アメリカにやってきたのは1941年で、アート・テイタムをレコードで聴きジャズに魅了されたのだ。この音楽に対する感覚と信じ難い技量とが卓越したジャズ・ピアニストとしての基礎を形づくった。しかしながら彼は常にクラシックとジャズ、その両分野に忠誠を守り、かくしてどちらにも本領を発揮するというきわめて稀な音楽家となった。同じことがナット・キング・コールにも当てはまる。ヴェルヴェットのような声とエレガントなピアノ演奏とで、彼はアメリカ軽音楽に新たな基準を設けたのだ。ナット・キング・コールの影響を受けていない歌手はめったにいない。また一方で彼がジャズ寄りの演奏をする時、世界最良のジャズ・ピアニストの一人ともなる。サンセットにおいてナット・キング・コールとプレヴィンはそれを証明したのであった」。

少しわかりにくい表現だが、プレヴィンが「ジャズとクラシック」にまたがって超一流であったように、ナット・キング・コールは「ポピュラーとジャズ」両分野で活躍したという意味だ。
これは現在の視点から書かれていることで、当時どうした理由からプレヴィンが起用されたのかは結局よくわからないままだ。前回、高校の卒業記念演奏会でロバート・シャーマンと、ピアノとフルートのデュエットを披露したことを記したが、それと同じ時期だから驚かされる。高校生の時から映画の編曲には関わっていたことが知られるから驚くことはないのだろうが、そうした時期の演奏が私家版とかでなくちゃんと存在するという点で、とりあえず驚きたい。またここではナット・キング・コールとの関係も全く触れられていないが、単純に考えて多分何の関係もないだろう。コールの録音日は45年6月9日だから第二次大戦はまだ終結していない時期。コールのセッションではラグーナとフォノコの共作クレジット楽曲が多いから、フォノコという人物もセッションの主宰者の一人に違いない。コールをリーダーにした五曲が当然このレーベル「サンセット」の目玉だっただろうが、では、その後プレヴィンに何故目をつけたのかは何の証言もない以上わからない。

コールのセッションとプレヴィンのセッションとではパーソネルも重複しておらず、両者の当時の地位を考えればこれも当然だが、面白いのはプレヴィンには様々な形態での録音機会を与えていること、そしてその内の一つがピアノ、ギター、ベースというコール・トリオ風の形態だという点なのだ。これが主宰者側のサゼスチョンによるものかプレヴィンの意思かはわからないが、ジャズ・ピアノを始めた頃のプレヴィンの音がこのようにアート・テイタムからナット・キング・コールへと流れる流麗なピアニズムの系譜に位置していたことは聴きとれる。スタジオはハリウッドのどこかに所在していたことがデータからわかっているが、時代から憶測すれば、プレヴィンはジャズのピアノ・スタイルとしてはこのような華麗な奏法しか知らなかったのだろう。これが当時のジャズ・ピアノの正統派なのだ。東海岸では、もっと奇矯でしかもあっという間にそれが「モダン・ジャズ」の主流派になってしまう「ビバップ」という動きが起きていたわけだが、十六歳の天才アンドレの耳にその音はまだ届いていなかったのではないか。逆から見れば、そういう初々しさがある演奏だ。