海外版DVDを見てみた 第32回 マルグリット・デュラス:彼女はなぜ映画を撮らねばならなかったのか(2) Text by 吉田広明
書籍『緑の眼』
『インディア・ソング』③ 記憶
デュラスは『緑の眼』の「BOOK AND FILM」で「映画がつくりあげられるのは―わたしにとって―書かれたもののこうした敗北の上でだ。その本質的で決定的な魅力は、こうした大虐殺のような破壊行為のうちにある」と書いている。そもそもインタビューの書き起こしだということもあり、直感的なデュラスの言葉の理路を辿ることは容易ではないが、そこでデュラスは、映画作家は作家とは「逆向きに書く」、作家の作業が終わったところから映画作家の作業が始まるという。作家は根源的沈黙、「内なる闇」とデュラスが呼ぶ創造の根源から言葉を探り出して形にする。それは何らかの具体的な人物や事物、出来事を通して具象化され、表象される。言葉は、そうした表象を通してしか、「内なる闇」を表現できない。表象は根源的沈黙を翻訳するためのあくまでやむをえざる手段である。しかし映画はその表象をこそ前面に出す。読むものの想像に委ねられているからこそ、無限であり、根源に近いイメージを強引に一つのイメージに限定してしまう。これが「大虐殺」である。映画はそもそもが具象的でしかありえず、かつ現在時制しか持たない媒体である。では映画には非具象的な概念も、時間も表現できないかと言えばそうではない。映画は、一個一個の具象的なイメージの構成、またそれを組み合わせてゆくモンタージュによって、非具象的な概念を感じさせ(表象されたイメージは見慣れていた事物の思いがけない面を映し出し、また一個のイメージはモンタージュの中で幾重にも意味を持つ)、また時間をも生じさせることができる(単にいくつものイメージが立て続けに流れるからと言うだけでなく、さっき見た、ないしかつて別の映画で見たイメージを思い出す、あるいは予想したりする、そのような形で内的な時間が生じる。映画は「記憶」の装置として、クロノロジカルな時間とは別種の時間を生じさせるのだ)。言葉が「内なる闇」から発して表象へと言わば頽落するのに対し、映画はあくまで表象から出発しながら、それを「内なる闇」に差し戻す。「映画は言葉を根源的な沈黙へと遡らせる」(同上)。デュラスが映画を撮ったのは、言葉の「大虐殺」である映画を通じて、言葉を再生させるためだったと言えるかもしれない。実際デュラスは最終的に文学に回帰してゆくのだが、文学に抵抗するものとしての映画は、生涯を通じて彼女の創造を刺激し続けるだろう。

さて、出来事は、こうして誰のものでもない、非人称化されたものとなる。それは今ここの全一性=アイデンティティを毀損するものではあるのだが、それはネガティヴなだけのものでは決してない。そのポジティヴな面を表す言葉が「記憶」、デュラス的な記憶である。この「記憶」は誰のものでも「ない」(否定)が、しかしそれゆえに、逆に誰のものでも「ある」(肯定)。否定性は否定性そのままに肯定性に返る。これこそが、一回性の決定的な出来事が、しかし特定の時空間を超えて生き延びてゆく(とは言えこれは「普遍化」ということではないだろう)ための方途なのだ。そしてこの『インディア・ソング』三部作にあってその決定的な出来事とは、「愛」ということになる。事実的な事を言えば、アンヌ=マリーにはモデルがあり、インドシナの外交官夫人だったその女性のために自殺した男性がいたということを知ったデュラスは、愛のために死ぬという事態に衝撃を受けた。あまりに強い愛は死と同じなのだ。ではその愛は、死と同じく、一瞬しか存在し得ないのか。そうではない。デュラスの記憶に刻印され、さらにデュラスによって作品化されることで生き延びた。しかしそれはデュラス作品の一エピソードとしてではなく、あくまでいつでもない、どこでもない時空にある「記憶」として、である。一回性の愛、強烈過ぎて時空間に持続することが不可能なまでの愛、死に限りなく近い愛、それを生き延びさせること。愛を「愛」として非在化し、無いからこそ滅びないものとすること。同じことをデュラスは、強制収容所という事態についてもすることになるだろう。これについては次回の稿で改めて記す。