海外版DVDを見てみた 第32回 マルグリット・デュラス:彼女はなぜ映画を撮らねばならなかったのか(2) Text by 吉田広明
『インディア・ソング』三部作、その二『インディア・ソング』①
『インディア・ソング』は、ズームで捉えられた、ゆっくりと沈んでゆく夕陽が周囲の灰色に滲んだような映像に、東南アジアらしき言語で語り、歌い、いきなり笑い出す女の声(この声の自在な変化)が重なる場面から始まる。そこにこの女乞食について語る声1、2がかぶさってくる。この声は女乞食について、そして狂気の副領事について、パーティの出席者たちについて語ってゆくのだが、その声たち自身が、彼らの物語に酔っている。デュラス自身の注釈によればそれらの声は、「『インディア・ソング』という経過し終わった伝説的物語、このモデルのうちにわが身を〈見失い〉、自分の生命を失うのではないかという危険」を抱えているのであり、登場人物たちやその死の欲望に同化してゆく存在として『ガンジスの女』の語り手と同じものである。テクスト『インディア・ソング』の前書きでデュラスは、この「物語の外に位置する声」についてこう書いている。「この発見(引用者註、オフの声の発見)が、物語を忘却のなかで動揺させ、それを作者のものとは別な記憶、ほかのどんな恋物語をも同様に思い出す記憶にゆだねることを可能ならしめたのである。デフォルメし、創造してゆく記憶」。

『ガンジスの女』の項で、語り手の格下げについて、これはネガティヴなものなのかと述べたが、その意義がここで明らかにされている。ここにおいて語り手は、自分のものではない記憶を思い出し、その記憶をデフォルメし、語り換え(書き換え)てゆく存在なのである。そこで語られる記憶は誰のものでもなくなってゆくわけだが、それと同時に語る主体そのものも誰でもない存在になってゆく。語られる物語の、そして語り手の「非人称化」。どこでもない場所で、誰のものでもない記憶が、誰とも知れない者によって思い出され、語られ、語られるうちにデフォルメされてゆく。『インディア・ソング』とは、そのような非人称化された記憶が反響する場そのものなのだ。

誰のものでもない出来事。出来事の当の持ち主ですら、自分のものと言えない出来事。それを具現化したのが、『インディア・ソング』で最も驚くべきショットである。そこでは、アンヌ=マリーがマイケルと踊るのだが、画面上で彼らは口をつぐんでおり、言葉を発していないにも関わらず、彼ら二人の声、会話が聞こえてくる。これはオフの声であり、いずれ違った時点の声を今の画面に被せているのだと思うことで納得しようとする我々は、すぐさまその試みを挫折させられる。声と同じ場にある筈の音楽が止むと画面上の二人も踊るのを止め、音楽が始まるとまた踊り出すのだ。これはいかにも異様な事態である(しかもあまりにもシンプルであり、それだけに衝撃的だ)。彼らは声たちと違って画面に現れていながら、自身の声を奪われている。あるいは逆に、彼らの声が、実体(映像)を奪われているというべきなのか。いずれにせよ、彼らの映像と声とは互いに互いを邪魔し合い、それぞれが「在る」ことによって一層「存在」の全一性を損なっており、『ガンジスの女』の映像なき語り手の声たちより以上に、非人称化の度合いがむしろ大きくなっている(『ガンジスの女』のオフの声については、彼らが画面以外のどこかにいると推定することはできる)。ついでながら言えば、この場面は大きな鏡を前にして撮られていて、二人の映像は二重化されている。こうした映像の二重化も(無論これについてどちらが実像と分からなくなるということはないにせよ)、声と映像のズレの印象を強めるだろう。