海外版DVDを見てみた 第31回 マルグリット・デュラス:彼女はなぜ映画を撮らねばならなかったのか(1) Text by 吉田広明
小説の変化②
表題の女性ロルは、婚約者マイケル・リチャードソンと共にT・ビーチのカジノでの舞踏会を訪れるが、マイケルはそこでアンヌ=マリー・ストレッテルという女性に心を奪われてしまう。ロルは二人が踊り続ける様を友人タチアナと共に「観葉植物の陰」から見つめ続ける。やがて母親がやって来て彼女に触れると、彼女は絶叫し、するとアンヌ=マリーとマイケルがその場を去り、彼らが見えなくなると、彼女は気絶する。しかしこれは実は小説の前提に過ぎない。小説の大半は、それから十年後に起こる出来事を語ってゆく。その後故郷S・タラを離れて結婚し、三人の子供を生んだ(ちなみに『モデラート・カンタービレ』で殺された女も三人の子持ちとされる)ロルは、自宅の「生け垣の陰」から、あるカップルが密やかに、しかし激しくキスするところを盗み見る。その後、その時の男が映画館から出るところを見つけたロルは後をつけ、彼がタチアナと合流し、連れ込み宿に入るのを目撃する。キスしていた女はタチアナだったのだ。連れ込み宿の裏のライ麦畑でロルは、彼らの情事を盗み見る(といっても部屋は上階なので、時折窓辺に現れる彼らの裸の姿を見るだけだが)。そしてロルはどうにかタチアナの現在の居場所を突き止め、彼女と旧交を温め、彼女の夫の同僚である情事の相手、ジャック・ホールドに紹介される。そしてこのジャックこそ、語り手「私」に他ならないのだ。「タチアナはロルを夫のピエール・ブニュールと、彼らの友人のジャック・ホールド、つまり間隔は踏み越えられたのだ、私、に紹介する」。その後ロルはジャックに近づき、関係し、その上でジャックにタチアナとの性交を促し、彼らの情事を再びホテル裏のライ麦畑で見ようとするのだ。

ここに現れているロルの心理、その機微については筆者には語る資格がないのだが、ともあれここでロルが自身の決定的な体験を反復していることが分かる。ジャックとタチアナを「生け垣の陰」から偶然見たことで、過去にマイケルとアンヌ=マリーの踊る姿を「観葉植物の陰」から見た経験を反復してしまったロルは、意識的にか無意識的にか過去を反復しようとして同じ状況を作り出す。自分の関係する相手が他の女に奪われるさまを再構成しようとするのだ(マイケルとジャック、男が共にイギリス名であることも偶然ではない)。これは精神分析的なアブリアクション(トラウマ的な事態が再現されることで、神経症が緩解する)なのだろうか。ジャック・ラカンがこの小説について評論を書いたことも思い起こされたりもするのだが、それよりは自分の身に起こった出来事をあたかも第三者として演出している、と見る方が正確なのではないか。と言って彼女があたかも神のごとく事態を操っていると見るのは間違っている。ロルは、当事者として出来事の内部にありつつ、かつ演出者としてその外にもいる。ロルは、何かやむに已まれぬ衝動に突き動かされているのであって自身の情動の内部に封じ込められているようでもありながら、一方で事態を操ってもいて、しかし彼女が自身の行動を外側から完全に支配しているかと言えばそうではなく、あくまでそれは無意識的な行動であり、彼女は自身の妄想的な世界の中にいて、外界はほとんど存在しないように見える。内かと思えば外、外かと思えば内、ロルの位置はいわばメビウスの輪の上なのだ。

こうした物語内部におけるロルの位置は、小説の語りにおけるジャックの位置と相同的である。彼は当事者として物語の内側にいる一方で語り手を僭称し、自身を物語に対して外的な位置に置くのだが、では客観的な語りをするのかと思えば自身の語りが「でっち上げ」であること、自身の想像にすぎないことをあからさまにする。伝えられ、語り継がれているうちに嘘か本当か曖昧になってゆく語り。『モデラート・カンタービレ』では第三者の事件に関する噂話としてあったそのような信用できない語りが、ここではさらに事件の当事者のそれとして現れ、そのいかがわしさを一層増しているのである。このような内と外の歪んだトポロジーを、デュラスはその後自身の過去の語りにも応用してゆくだろう(その最たるものが『愛人(ラマン)』であり『北の愛人』ということになる)。何度も語り直され、その都度語り変えられてゆく過去。それはデュラスにおける記憶の問題とも重なってくるだろうが、それについては改めて述べる。

さて、上記のような歪んだトポロジー、ジャックの「私」(語り手、言説の担い手)と「彼」(物語の登場人物)の分離を、『ロル・V』の翻訳者平岡は、映画における「サウンド・トラックと映像との分離可能性」によって触発されたものではないかとしている。デュラスの小説は、映画を介して変化しているのではないか、というわけである。ただ、『ロル・V』を書いた時点(64年)でまだデュラスは自身で映画を撮ってはいないばかりか、「サウンド・トラックと映像との分離」即ちオフの声の画期的な使用を見出すのは映画監督としての第五作目『ガンジスの女』(72-73)においてのことである。とすれば平岡の推定は順序が逆なのであって、むしろ、小説の語りの歪んだトポロジー、語り手の曖昧な境位こそ、映画におけるオフの声の使用法の淵源であったと見なす方が適当ではないだろうか。確かにデュラスの小説は映画『ヒロシマ、モナムール』のシナリオ執筆の時期から変わり始めている。人物や事物の描写や、過去から現在へと線的に流れる物語性の比重が軽くなり、一方で会話、語りの比重が大きくなって、小説というよりは映画のシナリオを思わせる外観を備えるようになって行きもする。しかしデュラスの小説の変化に映画の影響を見るのは、少なくともこの時点ではまだ難しいように思う。デュラスの小説は、反復や語り(会話、ナレーション)といった彼女の小説書法内部の論理によって変化を迎えていったのである。ただしその変化が語り(会話、ナレーション)を巡るものであった以上、その変化はいずれ映画に応用しうる可能性を秘めてはいた、ということなのだ。とは言え無論デュラスが『ヒロシマ、モナムール』を始め、ピーター・ブルックによる『モデラート・カンタービレ』の映画化(60年、邦題は『雨のしのび逢い』)や、『かくも長き不在』(61、アンリ・コルピにより監督)でのシナリオ提供といった形で映画に関わってゆく中で映画に触発され(というか自作の小説の映画化のありように反発するなかで)、映画という媒体の特異性を思考した可能性は十分ある。