海外版DVDを見てみた 第28回 マルセル・レルビエのサイレント映画 Text by 吉田広明
『生けるパスカル』ポスター

『生けるパスカル』のモジューヒン

『生けるパスカル』交霊術

『生けるパスカル』廃墟のような図書館

『生けるパスカル』主人公が住むローマのアパルトマン





『生けるパスカル』
『生けるパスカル』(26)はイタリアの劇作家、小説家のルイジ・ピランデルロの小説を原作とする。妻ロミルド(マルセル・プラド)と妻の母に疎まれた主人公パスカル(イワン・モジューヒン)が、自分の母と、生まれたばかりの娘の死に絶望、家出をして偶々たどり着いたモンテ・カルロで、見よう見まねでルーレットに興じると、ビギナーズラックで大金を勝ち取ってしまう。一旦は家に帰ろうとするが、自分が死んだことになっていると新聞で知り、そのままローマに向かい、その地のアパルトマンに別人として住む。管理人の純朴な娘アドリエンヌ(ロイス・モラン)と恋に落ちるが、彼女の父は心霊術に凝り、心霊術師であるいかがわしい男と娘を婚約させていた。主人公は、心霊術師をやり込め、故郷に帰り、妻が自分の友人(ミシェル・シモンが演じている)と再婚していることを知り、ローマへ帰り、アドリエンヌとめでたく結婚する。

 全体に、『人でなしの女』のような意表を突くセットもモンタージュもなく、レルビエにしては比較的普通なコメディ・ドラマに見える。パスカルはロミルドの入り婿になるのだが、彼女の家が中二階に夫婦の暮らす部屋があるという構造で少し変わっているのと、パスカルが結婚後働くことになる、教会内にあるという図書館のセットが異様(セット・デザインは、カヴァルカンティとラザール・メールスン――メールスンにとって初めて関わった映画)。ほとんど廃墟で、古い本が縄で縛られて積み上がっている。足の踏み場もない程で、そこら中埃だらけ、ネズミがあちらこちらで古い本をかじっている。長いあごひげの老人が何か巨大な本を読んでいるが、呼んでも、耳が聞こえないのか、一切返事をしない。パスカルの仕事は積み上がった本を別のところに移動させるというムダとしかいいようのない作業と、ネズミ退治に子猫を導入することである。ローマ場面はロケで撮られているようだが、アパルトマンはセットなのだろうか、妙にだだっ広く、ローマの外景にしても、何故かほとんど人影がないことに加え、もともとローマ自体が建物の作りが大きいのもあるだろうが、主人公に比して、建物が不思議に巨大に見えるのだ。レンズの使用法に依るのだろうか。

 本作は、(ロシア革命からの)亡命ロシア人たちがスタッフ、キャストとして関わっている。主演のモジューヒン、セットのメールスンを始め、製作のアルバトロスも亡命ロシア人たちが設立した会社だ。20年代のフランス映画は、フランス、亡命ロシア人、ドイツのコンソーシアムによって作られる、規模の大きい作品が多々見られた。前回取り上げたアベル・ガンスの『ナポレオン』(27)も、ガンス自身のプロダクションを含むフランスとドイツの複数の映画会社による製作だし、カール・テオドール・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』(28)の製作会社ソシエテ・ジェネラルの大口出資者は、ドイツ人によるコンソーシアムである。そもそも第一次大戦以前、全世界に映画作品を供給していたのはフランスのパテ社だった。第一次大戦でパテ社の作品供給が途切れ、自国で映画館に掛ける作品を作らねばならなかったのが、アメリカの映画産業誕生のきっかけである。移民国家アメリカは誰にでも分かる平明なナラティヴを開発し、その上で洗練を極め、ある程度の内容を持つ物語を語るのに一時間数十分程度というフォーマットを定着させてゆく。30年代になって一定程度の量を生産できる産業構造も確立したアメリカ映画は、その作品を世界中に輸出、世界映画の地図を塗り替えてゆく。二十年代はまだアメリカ映画のヘゲモニーが確立される以前で、フランスは、当時として質量ともに世界一と言ってよいドイツ映画に追随し、しかしそれとも違った道を探るべく、ナラティヴよりは映像、描写、編集に重きを置く作品を模索。その最良の例が、ガンスであり、レルビエということになる。物語の内容に比して、描写が上映時間を引き延ばしてゆくので、どうしても長くなるわけである。また、内容面ばかりでなく、製作の在り方としてもアメリカに対抗すべくヨーロッパが共同戦線を張る、それが国の枠組みを超えた、国際的な映画製作として現れるのでもある。これまで取り上げて来た作品においても、『エル・ドラドオ』はアンダルシア地方を舞台にしてフランス人が演じ、『人でなしの女』はアメリカ人女性が出資、主演、『生けるパスカル』はロシア人製作、主演、イタリアを舞台にしている。次の『金』も、キャストはフランス人、ドイツ人、イギリス人と、レルビエの作品はことさら国際色が強いように思われる。しかしこうしたフランス映画の巨大さは、アメリカ映画の効率性を前に敗れ去ってゆく。アメリカ映画の内部においてもエリッヒ・フォン・シュトロハイムのような作家はこの時期のフランス映画と共通するものを持つのだが(処女監督作『アルプス颪』が19年、『愚かなる妻』が22年、『グリード』が24年、完成された作品として最後の監督作『結婚行進曲』が28年、処女作と最終作がレルビエの処女作、サイレント最終作と全く年度が一致)、彼がアメリカ映画の中で異端児扱いされ、いずれ消え去る運命にあるのも、当時の世界映画の情勢を見る限り、当然と言えば当然だったのかもしれない(無論、敗れ去って当然ということではない。現在から見て、当時アメリカ映画のヘゲモニーに対するオルタナティヴがアメリカ国内国外にあったということは見直すべきことなのではないかということである)。